二人の23歳 今と昔

若者の行動が日本を支える、未来を作っていきます。
その手助けを全世代が行っているのです。
日本では古来より若い世代が古い世代の膿を駆逐して新しい時代を作ってきました。

若者が搾取されていたという人もおりますが、それは戦後の日本だけだったようです。
戦前の日本は子供のパラダイスとも言われるくらい平和に笑って暮らせていたようです。
子供組というものが出来、地域の子供たちの秩序の中、自由気ままに暮らしていたとのこと、大人たちも最低限しか関与しなかったようです。
それくらい子供たちは自由であったという事です。
昨今、外国人たちが驚いた日本の風景があります。
それは子供だけの集団登校です。私も知りませんでしたが、外国では子供だけで登校することはないそうです。
なんでも子供達だけで登校するのには治安が悪く、スクールバスにて登校、もしくは自家用車で登校するというのが当たり前になっているようです。
又、子供を一人で外で遊ばせないのが当たり前になっているそうです。
そのような海外の価値観と日本の価値観を一緒にされては困るというものです。

たとえば私だと幼稚園には公共のバスを使って通学していましたし、電車に乗るのも一人でした。
学校から帰った後に遊びに行くときには行先も告げずに遊びに行きましたし、何度も怒られた経験があります。
普通に子供だけで様々な遊びを体験していました。
しかし、外国ではそれは当たり前ではないとのこと、発展途上国では子供といえども労働力となり、先進国では子供だけでは遊ばせることが出来ないようです。

あれ?話が相当ずれてしまいました。戻します。
日本では若者たちの行動力が未来を作ってきました。
最近の話では大東亜戦争の際の神風特別攻撃隊があります。
戦死者6418名英霊 彼らの言葉をお聞き願えればと思います。
23歳特攻隊員「日本はおしまい」「妻を守るために死ぬ」無念と絶望…母は「戦争協力者」と貶められ
 毎年10月25日、愛媛県西条市の楢本神社で、「神風特攻敷島隊並びに愛媛県特攻戦没者追悼式典」が開かれ、今年で40回を数える。
 敷島隊は昭和19年10月20日、フィリピンのマバラカット飛行場で、海軍兵学校70期の関行男大尉=当時(23)、戦死後に中佐=を指揮官に5人で編成。25日、レイテ沖海戦で敵空母群に突撃し、護衛空母セント・ローを撃沈するなど戦果を挙げた。
 当時の新聞は朝刊1面で「身を捨てて国を救わんとする皇軍の精粋である」と報じた。
 関大尉は命令を受けた際「ぜひ、私にやらせてください」と承諾したとされるが、報道班員だった同盟通信の小野田政派員は、出撃を控えた関大尉とのやり取りを回想録「神風特攻隊出撃の日」の中でこう記す。
 「関は腹立たしげにこういった。『報道班員、日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて』『ぼくは最愛のKAのために行くんだ。命令とあらば止むをえない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう!』」
 関大尉は当時、新婚5カ月。KAは海軍用語で妻を指し、その言葉からは苦渋に満ちた決断が伝わる。
 特攻隊員が愛する者を守り、国の行く末を案じる気持ちが行動の芯であったのはまぎれもない事実だが、美辞麗句で片付ける前に、生への執着を断ち切るまでの想像を絶する努力と決断があったことは想像に難くない。
 ところが、軍神とあがめられた特攻隊員に対する賛美は敗戦とともに影を潜め、遺族を取り巻く環境も一変した。
 関大尉の母、サカエさんも、「軍神の母」からいつしか「戦争協力者の母」という批判を浴びせられる。
 訪れる人もなく、衣類を闇米に代え、草餅を作って売り歩いた。晩年は西条市の小学校に住み込みで働き、昭和28年11月、還暦を前に亡くなる。
 意識が混濁する床で、「行男の墓を建ててください」とつぶやいて息を引きとったという。
 サカエさんが亡くなった際、戦時中は「軍神の母」につきまとっていた新聞記者が、「そんなもの記事になりますか。軍神がなんですか」と吐き捨てるように言ったという。
 フィリピン・レイテ沖海戦で昭和19年10月25日、関行男大尉=当時(23)、戦死後に中佐=率いる旧日本海軍の「神風特攻敷島隊」が初めての攻撃を実行してから、70年となる。
 自身も海軍特攻隊員で、出撃前に終戦を迎えた「敷島隊5軍神 愛媛特攻戦没者奉賛会」会長の寺田幸男さん(88)は、英霊への感謝の気持ちを奪った当時のメディアとそれに醸成された世論は戦後の日本の姿をゆがめたという。「成人式が済んでいないような若者がにっこり笑って死んどるじゃろ。そんなのは日本しかない。日本人は誇りに思わにゃあいかん。それを教えないから、今の子供はのうのうとしている」
 特攻作戦はその後も、陸、海軍が沖縄戦などで大規模に展開した。
 沖縄に向けての出撃前に終戦を迎えた元陸軍特攻隊員で第194振武(しんぶ)隊長だった堀山久生さん(91)=陸軍士官学校57期=は「国が負けかかっているときに、俺たちがやらんで誰がやるか。やらなきゃいかんのです。そうしなければ国が滅亡する」と振り返る。
 沖縄への出撃後に機体の故障などで帰投した元陸軍特攻隊員で、知覧特攻平和会館(鹿児島県)の初代館長、板津忠正さん(89)も「自分が死ななければ日本は救われないと信じている者もたくさんいた。私も『国のため、肉親のために死ねる』という満足感があった」と語る。
 戦局悪化の中、軍上層部には脳漿(のうしょう)を絞る者も、的確な判断を下す者もいなかったのだろうか。
 人間魚雷・回天を考案した黒木博司大尉=当時(22)、殉職後に少佐=は戦友に「中央の怠慢は国賊というの外なし。戦局今日に至りし所以、全く物にあらず人にあり」と軍上層部への怒りに似た思いを打ち明けている。
 戦後70年近くたった日本の姿にいらだちを感じる関係者も多い。鹿児島・知覧飛行場から沖縄に出撃して散華した元陸軍特攻隊長の婚約者だった女性(95)=岐阜県=は最近、「あの人たちは何のために死んだのかしら。あの人たちの姿と思いを日本人は忘れてしまったのかしら。今の日本を見ると、かわいそうで仕方がない」と涙を流す。
 鹿児島・万世飛行場から沖縄に出撃して散華した陸軍特攻隊員の実兄は「隊員の多くは、子供たちに古事記を読ませるように言い残すなど教育の大切さを説いた。戦後、わが国は経済面で世界の牽引(けんいん)国に成長したが、何か、大切なものを忘れてしまった」という。
 戦後70年を経た日本人がこれから、どのような日本国を構築するのか-。英霊は現代の日本人にそう問いかけている気がする。(編集委員 宮本雅史)

日本ではこのように亡くなられた英霊の方々をなじる人たちがいます。
私にはその気持ちが全く分かりません。礎となられた方々がいるから私たちは安心して暮らしていけているのではないでしょうか?日本政府の力だけで戦争を戦ったわけではありません。名もなき一般の人たちが戦ったからこそ日本は安心して生きていける生活土壌が出来たのではないでしょうか?
そのことを知ってください、理解してください。その心を感じてください。批判するのであれば靖国神社へ一度は伺ってください。知らずに批判することは簡単です。しかし、それは卑怯者のすることではないでしょうか?

さて、現代においても若者は頑張っております。少し舞台は異なりますが、歌の世界で日本の為に戦っている女性歌手がおります。
「必ず、迎えに行くよ」拉致問題解決へ新たな風 大阪の23歳女性が異色楽曲「空と海の向こう」人気 
 必ず、迎えに行く-。大阪府東大阪市在住のシンガー・ソングライター、山口采希(あやき)さん(23)が、北朝鮮による拉致問題を扱った異色の楽曲「空と海の向こう」を発表した。9月24日にCDが発売され、オリコンのデイリーチャートで初登場7位を獲得。平成生まれの澄んだ歌声は拉致問題の存在を知らない若年層に浸透しつつあり、被害者救出に向けた活動に新たな風を起こしている。(時吉達也)
 台風18号が去り、青空ものぞいた10月6日午後。同府豊中市の千里中央駅前の広場で、山口さんの路上ライブに買い物客が足を止めた。
 「上手に拍手してくれて、ありがとうなー」。数曲を歌い上げ、家族連れの子供らと終始笑顔でやりとりをしていた山口さん。しかし、一瞬間を置くと表情を一転させ、ゆっくりと言葉を紡いだ。
 「『さらわれてしまった方々を必ず取り返す、取り戻す』。音楽を通して、思いを伝えていきたいです。必ず、必ず、迎えに行こう。『空と海の向こう』」
 ピアノの伴奏に合わせ、透明感あふれる歌声が空に吸い込まれていった。
 東大阪市出身。小学6年生の時から地元の盆踊りで河内音頭の音頭取りを務め、高校卒業後に大好きな音楽の道を志した。明治時代の「教育勅語」や「五箇条の御誓文」をテーマにした楽曲を発表するなど、常識の枠にとらわれない活動を続けていた山口さんが「拉致」に関心を抱いたのは平成24年秋。拉致被害者救出活動の象徴「ブルーリボン」をファンから渡されたのがきっかけだった。
 問題を知るにつれ「こんなにも多くの人が被害に遭っていたことを、自分は知らなかったのか」とがくぜんとした。音楽活動の拠点だった大阪市内の料理店の従業員、原敕晁(ただあき)さん=拉致当時(43)=が被害者の1人だったことも問題を身近に感じさせた。
 それでも、現実には音楽活動やアルバイトで忙しく、署名活動などに積極的に参加できない日々が続いた。「自分に何かできることはないのか」。その思いから昨年9月、一つの曲を書き上げた。
 「空と海の向こう」の歌詞には、北朝鮮との駆け引きに翻弄(ほんろう)され、膠着(こうちゃく)状態の続く重苦しい現状を思い起こさせる言葉はない。迷った末、「拉致」という単語を組み入れることもやめた。「被害者の家族や支援する人々の思いを、より多くの人に伝えたい。複雑な問題だからこそ、シンプルな歌詞にしたかった」という。
 20年以上苦しみ続ける当事者らの思いを自分に表現できるのか。100回以上のライブを重ねても不安は尽きなかった。8月、拉致被害者の有本恵子さん=同(23)=の母、嘉代子さん(88)と同席したイベントで歌を披露し、「いい曲だった。ありがとう」と声をかけてもらったことで、ようやく肩の力が抜けた。
 最も印象に残っているのは、自分を慕い、以前からたびたびライブを見に来てくれる女子中学生の反応。「誘拐やろ。必ず取り返さなあかんな」。語気を強め、無料通信アプリ「LINE」を通じ「北朝鮮の拉致問題って知ってる?」と周りの友達に問いかけていた。「自分の言葉で拉致について考え、発信してくれている」。そのことが、何よりうれしかった。
 現在、大阪府内の複合商業施設や高速道路サービスエリアで定期的に路上ライブを開き、府外でも拉致問題の啓発活動などに参加して楽曲を披露している。
 一人でも多くの人にメッセージを伝え続けていく。思いが、「空と海の向こう」に届く日まで。



今でも若者が頑張っております。
その頑張りを無駄には出来ません。
私たちが支えていかなくてはならないのではないでしょうか?
山口あやきさんのブログはこちらになります。
山口あやき
北朝鮮の対応には大変文句があります。日本政府も頑張っておりますがやはり自分の身を自分で守れない事がマイナスに出ているとしか見えません。
礎となった方々のためにもこの日本を残していきましょう。
この美しい日本は日本人が築きあげてきたものです。
(ブラッキー)

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歴史 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2014/11/10 06:00
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