強固に戦った日本軍

嘉数高台
大東亜戦争にて日本軍が最後に戦った沖縄、それは官民一体となった日本総力戦です。
日本中から若者が7万人以上も集まり、海軍、陸軍の総力戦となった沖縄戦
その最初の火ぶたはここ嘉数のちから始まりました。

【戦後70年 沖縄戦の真実】米軍も震え上がった日本軍の強靭さ 16日間の攻防戦
 昭和20(1945)年3月26日、米陸軍歩兵師団が、那覇の西方に位置する慶良間(けらま)諸島に上陸を開始し、沖縄地上戦の火ぶたが切って落とされた。続いて4月1日、米陸軍師団や海兵師団が、200隻以上の米戦闘艦艇の猛烈な艦砲射撃の支援を受けて、沖縄本島西部の読谷(よみたん)海岸付近に上陸を開始した。
 ところが、日本軍は一発も撃ってこない。米軍は猛烈な反撃を想定していたが、日本軍は沈黙したままだった。日本軍守備隊は、圧倒的物量を誇る米軍をまずは上陸させ、間合いを詰めてから一挙にたたく戦術に転換したのである。
 沖縄戦に投入された米軍の兵力は、洋上の支援部隊を含めると約54万8000人。強力な火力を持つ艦艇約1500隻と、艦載機約1200機、500両を超える戦車、野砲、ロケット砲などを準備していた。
 一方、日本軍は牛島満中将率いる陸軍第32軍など、陸海軍合わた将兵は約11万6400人。戦車や野砲、対戦車砲などの数では劣っていたが、勇戦敢闘し、約10万人の犠牲と引き換えに、圧倒的優勢だった米軍に死傷者約6万5600人もの大損害を与えたのである。日本軍は一方的にやられていたのではなかったのだ。
 上陸した米軍の前にまず立ちはだかったのは、わずか1200人の賀谷興吉中佐率いる、独立歩兵第12大隊、通称「賀谷支隊」だった。上陸後に本島南部に向かった米陸軍2個師団の前進を妨害し、進撃を遅らせる「遅滞戦闘」を展開して、米軍を悩ませ続けたのである。
 さらに、沖縄戦最大級の戦闘の1つ、本島中部の「嘉数(かかず)高地の戦い」では、日本軍はあらかじめ北側斜面にトーチカを構築し、南側斜面には迫撃砲や、歩兵が身を隠す棲息壕などを配置した「反射面陣地」で待ち構えた。
 この罠に米軍ははまった。日本軍は米軍に猛烈な銃火を浴びせたかと思えば、壮絶な白兵戦を繰り広げるなどして、米軍将兵に衝撃を与えた。戦闘は熾烈を極め、米軍が取ったと思えば、日本軍がすかさず奪還する、一進一退の攻防戦が繰り広げられた。
 4月19日の戦闘では、米軍のM4シャーマン戦車30両が嘉数高地に向けて進撃してきたが、巧みに配置した日本軍の速射砲や高射砲が狙い撃ちするなどして、何と22両を撃破した。大戦果であった。
 日本軍は「沖縄を守ろう」と、圧倒的物量を誇る米軍の前に敢然と立ちはだかった。日本軍は約6万4000人もの尊い命を失ったが、4月8日から16日間の攻防戦で、米軍の戦死傷者は、予想をはるかに超える約2万4000人に至ったのである。嘉数高地に投入された部隊には京都府や福井県の兵士が多かったという。米軍はこの大損害にがくぜんとし、日本軍守備隊の強靭さに震え上がったのである。


ここ嘉数の高台には京都府出身者への慰霊碑と島根県民が奮闘したことを示す石碑、そして韓民族の慰霊碑があります。
嘉数の慰霊碑
【京都府】
~碑文~
昭和二十年春沖縄島の戦いに際しまして京都府下出身の将兵二千五百三十有余名の人々が遠く郷土に思いをはせひたすら祖国の興隆を念じつつついに砲煙弾雨の中に倒れた。また、多くの沖縄住民も運命を俱にされたことは誠に哀惜に絶へない。特にこの高台附近は主戦場の一部としてその戦闘は最も激烈を極めた。
星霜十九年を経ていまこの悲しみの地にそれらの人々の御冥福を祈る為京都府市民によって「京都の塔」が建立されるにいたった。再び戦争の悲しみが繰り返されることがないよう併せて沖縄と京都とを結ぶ文化と友好の絆がますます固められるようこの塔に切なる願いをよせるものである。
合祀者数:二千五百三十六柱英霊

此処では京都出身者の多い第六十二師団が果敢に戦いました。
そして地元の人々はその後方支援として負傷者の手当てや輸送を手伝ったそうです。

此処からは海岸が、そして普天間基地がよく見えます。
70年前に勇敢に戦った御英霊の皆様、ありがとうございます。
現在、中共のスパイが沖縄に出入りし領地拡大の野心を隠そうともしなくなりました。
受け継いだ我々が沖縄を日本を護っていかなくてはなりません。
我々は同じ日本人です。
(ブラッキー)

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歴史 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2015/09/07 06:00
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