殉国七士、殉国六十烈士、三百万余戦没者追悼

先日、殉国七士、殉国六十烈士、三百万余戦没者追悼のために靖国神社へ参拝に行ってきました。
12月23日、陛下のお誕生日である天長節に殉国七士は処刑されました。
当時の皇太子のお誕生日に設定したGHQの悪意、本来なら祝いの日であるはずの日に併せてきたのは人間のやる事ではありません。
少なくとも私の知っている人間じゃないですね。

さて、殉国七士の罪はなんだったのでしょうか?東京裁判というリンチによって戦争終了後に作られた平和に対する罪とか言われていますが、戦争に負けたことが罪なのであればそれは国民全員で負っています。
東条英機閣下はこのような遺言を残しております。
東条英機の遺言
《英米諸国人に告げる》
今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である。この深刻な事実は私も固より、これを認めるにやぶさかではない。しかし、諸君の勝利は力による勝利であって、正理公道による勝利ではない。私は今ここに、諸君に向かって事実を列挙していく時間はない。しかし諸君がもし、虚心坦懐で公平な眼差しをもって最近の歴史的推移を観察するなら、その思い半ばを過ぎるものがあるのではないだろうか。我れ等はただ微力であったために正理公道を蹂躙されたのであると痛嘆するだけである。いかに戦争は手段を選ばないものであるといっても、原子爆弾を使用して無辜の老若男女数万人もしくは数十万人を一挙に殺戮するようなことを敢えて行ったことに対して、あまりにも暴虐非道であると言わなければならない。
もし諸般の行いを最後に終えることがなければ、世界はさらに第三第四第五といった世界戦争を引き起こし、人類を絶滅に至らしめることなければ止むことがなくなるであろう。
諸君はすべからく一大猛省し、自らを顧みて天地の大道に恥じることないよう努めよ。

《日本同胞国民諸君》
今はただ、承詔必謹する〔伴注:終戦の詔を何があっても大切に受け止める〕だけである。私も何も言う言葉がない。
ただ、大東亜戦争は彼らが挑発したものであり、私は国家の生存と国民の自衛のため、止むを得ず受けてたっただけのことである。この経緯は昭和十六年十二月八日の宣戦の大詔に特筆大書されているとおりであり、太陽の輝きのように明白である。ゆえにもし、世界の世論が、戦争責任者を追及しようとするならば、その責任者は我が国にいるのではなく彼の国にいるということは、彼の国の人間の中にもそのように明言する者がいるとおりである。不幸にして我が国は力不足のために彼の国に敗けたけれども、正理公議は厳として我が国あるということは動かすことのできないことである。
力の強弱を、正邪善悪の基準にしては絶対にいけない。人が多ければ天に勝ち、天が定まれば人を破るということは、天道の法則である。諸君にあっては、大国民であるという誇りを持ち、天が定まる日を待ちつづけていただきたい。日本は神国である。永久不滅の国家である。皇祖皇宗の神霊は畏れ多くも我々を照らし出して見ておられるのである。
諸君、願わくば、自暴自棄となることなく、喪神落胆することなく、皇国の命運を確信し、精進努力することによってこの一大困難を克服し、もって天日復明の時が来ることを待たれんことを。

《日本青年諸君に告げる。》
《日本青年諸君各位》
我が日本は神国である。この国の最後の望みはただ諸君一人一人の頭上にある。私は諸君が隠忍自重し、どのような努力をも怠らずに気を養い、胆を練り、現在の状況に対処することを祈ってやまない。
現在、皇国は不幸にして悲嘆の底に陥っている。しかしこれは力の多少や強弱の問題であって、正義公道は始終一貫して我が国にあるということは少しも疑いを入れない。
また、幾百万の同胞がこの戦争のために国家に殉じたが、彼らの英魂毅魄〔伴注:美しく強い魂魄〕は、必ず永遠にこの国家の鎮護となることであろう。殉国の烈士は、決して犬死したものではない。諸君、ねがわくば大和民族たる自信と誇りをしっかり持ち、日本三千年来の国史の導きに従い、また忠勇義烈なる先輩の遺旨を追い、もって皇運をいつまでも扶翼せんことを。これこそがまことに私の最後の願いである。思うに、今後は、強者に拝跪し、世間におもねり、おかしな理屈や邪説におもねり、雷同する者どもが少なからず発生するであろう。しかし諸君にあっては日本男児の真骨頂を堅持していただきたい。

真骨頂とは何か。忠君愛国の日本精神。これだけである。
処刑された後に英雄として奉ることを恐れたGHQは遺骨を誰のかわからないように粉々に砕いたとかなんとか・・・
しかし、有志の手により興亜観音へと移され5月3日には三ヶ根山へと行かれました。
興亜観音
このいきさつは産経が記事を書いております。
火葬場から盗み出された7人の遺灰は… 広田弘毅は無理な罪状にも「自ら計らわず」
 昭和23年12月26日未明、横浜市西区の久保山火葬場(現久保山斎場)の共同骨捨場に、黒いマントに身を包んだ男3人が闇にまぎれて忍び込んだ。3人は先端に空き缶を付けた竹ざおをコンクリート床の穴に入れ、中にたまった骨灰を慎重にすくい上げた。寒さと緊張で手の震えが止まらない。なんとか一握りほどの骨灰と細かな骨を集め、骨壺に収めると、男たちは無言でうなずき合い、その場を立ち去った。
 骨壺は近くの寺で厳重に保管された後、翌24年5月3日に伊豆山(静岡県熱海市)中腹の寺院「礼拝山興亜観音」に持ち込まれた。
 遺灰は、東京裁判(極東国際軍事裁判)で死刑を宣告され、A級戦犯として絞首刑となった元首相、東條英機(陸軍大将)ら7人のものだった。
 7人の刑は、戦犯収容所の東京・巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)の一角で23年12月23日午前0時すぎ、ひっそりと執行された。この日は明仁皇太子(天皇陛下)満15歳の誕生日だった。
 連合国軍総司令部(GHQ)は刑執行後、久保山火葬場に遺体を運び込み、厳重警戒の中で焼却した。遺族は遺灰の引き取りを願ったが、GHQはにべもなく断った。神聖化され、軍国主義復活に利用されることを恐れたのだ。遺骨は米兵によって鉄の棒で粉々に砕かれ、東京湾に捨てられたとされる。
 遺族たちの無念を聞き、東京裁判で元首相の小磯国昭の代理人を務めた弁護士の三文字正平が奮い立った。久保山火葬場で火葬されるという情報を得ると、旧知の住職とともに火葬場長に遺灰奪回計画を持ちかけた。
 火葬場長は、米兵がわずかな骨片や遺灰は掃き集めてコンクリ穴に捨てたのを見逃さなかった。クリスマスの夜ならば警備も手薄になるに違いない。こうして3人は首尾よく遺灰を取り戻したのだった。
 最終的に遺灰を持ち込んだ興亜観音は、東京裁判で南京事件の責任を問われ処刑された元中支那方面軍司令官、松井石根(陸軍大将)が日中戦没将兵の慰霊に建立した寺だった。松井は巣鴨への出頭直前に密かに興亜観音を訪ね、「どうか英霊の供養を頼む」と住職の伊丹忍礼の手を握った。
 それだけに興亜観音は絶好の安置場所だったが、油断はできない。三文字は骨壺を持ち込んだ際、「これはお知り合いのご遺灰です。時機が来るまで誰にも分からぬよう秘蔵していただきたい」と頭を下げた。誰の遺灰かピンときた伊丹は快諾し、本堂の床下や礼拝堂など隠し場所を頻繁に変えて遺灰を守り続けた。作業は真夜中に行い、家族にも秘密だった。伊丹の三女で現住職の妙浄(63)はこう打ち明けた。
 「父はご遺灰については何も語りませんでしたが、『兵隊さんのご苦労を思えば何の苦労もない。ご英霊のご丹精があったからこそ今日の日本がある』というのが口癖でした。英霊はA級もB級もなく供養するのが当たり前だと考えていたのでしょう」
× × ×
 A級戦犯として処刑された7人の中で元首相、広田弘毅は外交官出身で唯一の文官だった。
 23年11月12日の死刑宣告から2週間余り経った11月29日、広田の家族は最後の別れを告げに巣鴨プリズンを訪ねた。

 10歳だった孫の弘太郎(77)は面会室の一角でガラス越しに祖父と向き合った。物心ついて祖父に会うのは初めて。面会前に父、弘雄に「お前がおじいさんに会えるのは今日が最後だ。なるべく覚えておくように」と言われたので必死に目を凝らしていると、広田は優しくほほ笑みながらこう言った。
 「ちゃんと勉強して、しっかり暮らしなさい」
 緊張のあまり顔はうろ覚えだが、広田の落ち着き払った物腰は覚えている。他の家族にも、判決への不満や、遺言めいた言葉は一切なく「これからの世の中は外国語の勉強はしておいた方がいいな」などと何気ない団欒を続けた。
 広田は一体何の罪に問われたのか。
 主席検事、ジョセフ・キーナン率いる検事団は、侵略戦争を計画・実行した「平和に対する罪」▽捕虜殺害・虐待など「通常の戦争犯罪」▽一般住民への非人道的行為など「人道に対する罪」-の3つの罪状で28人を起訴した。対象は3(1928)年1月1日から20(1945)年9月2日まで。適用された訴因全55項目のうち広田の訴因は48項目に及んだ。
 検事団は、首相の田中義一が3年に昭和天皇に上奏したとされる「田中上奏文」を、ナチス・ドイツを率いたヒトラーが著した「わが闘争」と同様の文書と位置づけ、歴代内閣と軍部が17年8カ月にわたり侵略戦争を計画・遂行した-という筋書きを描いた。
 実態は全く違う。この時期は短命政権が続き、政策に一貫性はない。満州事変や盧溝橋事件なども関連性が薄かった。無理な筋書きはすぐに破綻し、検事団は早晩行き詰まった。しかも証人尋問を通じて検事団が証拠提出した田中上奏文が偽物だと判明した。
 窮した検事団が飛びついたのが、広田内閣が11年8月に策定した「国策の基準」だった。仮想敵国の想定に基づき陸海軍の南北並進を記した文書を「侵略戦争への計画書」と見立てたのだ。仮想敵国対策が戦争計画であるはずはなく、広田も「軍部の予算獲得のための方便」としか認識していなかったが、検事団は広田を「軍部の積極的な追随者」と位置づけた。
 広田が外相時代の12年12月に起きた南京事件への対応も「現地から報告を受けながら陸相に抗議しただけで閣議報告せず、適切な対策を怠った」と責任を問われた。
 軍の作戦が閣議案件になるはずはなく、最年少で起訴された元軍務局長、佐藤賢了(陸軍中将、終身刑)は「外相は陸相に警告する以外にすべがなかったことを証言すべきだ」と促したが、「自ら計らわず」を信条とする広田は一切弁明しなかった。広田については判事団の見解も分かれ、多数決の結果、6対5で死刑判決が決まった。
 背景には、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーが「戦争犯罪は日本政府全体で遂行したもので軍部だけの責任ではない」と文官の処罰を求めたことがある。ところが、文官ながら広田よりよほど戦争に関与していた元首相の近衛文麿はA級戦犯リストに入れられた直後に服毒自殺した。元外相の松岡洋右も公判中に病死してしまった。代わりに広田がターゲットになったと言ってもよい。
 それでも広田は判決に愚痴一つこぼさず「雷に当たったようなものだ」と達観していた。
 心の支えは家族だった。妻、静子は「パパを楽にしてあげる方法が一つあるわ」と言って自ら命を絶ったが、娘たちは欠かさず法廷に通い、被告席の広田と視線を交わした。
 「デス・バイ・ハンギング」。裁判長のウィリアム・ウェッブの死刑宣告で法廷がどよめく中でも、広田は娘たちにほほ笑みかけることを忘れなかった。
   × × ×
 7人の処刑から5年目の命日となる28年12月23日。見知らぬ外国人が興亜観音に姿を現した。東京裁判でインド代表として判事を務めたラダ・ビノード・パールだった。山麓に住む松井の妻を訪ねた後、山道を登り、7人の菩提を弔いに来たのだった。
 パールは裁判で被告人全員の無罪を主張した。法廷に提出した1200ページ超の意見書では、勝者が敗者を裁くこと自体を批判。「日本は計画に基づき侵略戦争を始めたのではなく、むしろ西洋に挑発された」「一般市民への生命財産の侵害が戦争犯罪ならば、原爆投下こそが裁かれねばならない」などと主張した。
 興亜観音の境内には34年4月、松井の友人らが「殉国七士之碑」を建立した。揮毫したのは広田と外務省同期入省の元首相、吉田茂だった。
 満州事変の責任を問われ、処刑された元第7方面軍司令官、板垣征四郎(陸軍大将)の次男で元参院議員の正(91)はこう語った。
 「東京裁判はGHQの占領政策の一環であり、裁判に値しない。だが、心ある日本人がGHQに屈しなかったからこそ7人の遺灰が今に至るまで大切にされた。ありがたいことです」
× × ×
 興亜観音をめぐってはこんな不思議な話もある。
 26年5月、1人の米将校が興亜観音を訪れた。7人の死刑執行の責任者だった米軍中将、ヘンリー・ウォーカーの副官だった。
 ウォーカーは朝鮮戦争の米軍司令官として朝鮮半島に派遣されたが、自らジープを運転中に同僚に追突され、崖から転落死した。
 事故があったのは、25年12月23日未明。7人の命日だった。「7人の呪いではないか」。韓国人将校にこう言われた副官は興亜観音に7人の遺灰があることをどこからか聞きつけ、悪霊払いに訪れたのだった。
 住職の伊丹忍礼は「怨親平等が松井大将のお心です」と言い、ウォーカーの慰霊碑を菩薩像のそばに建立し、法要を営んだ。

今一度平和について考えていきたいと思います。
我が国に平和をもたらした英霊の皆様に感謝を
(ブラッキー)

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歴史 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2016/01/02 06:00
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