天皇さまが泣いてござった

 4月29日の「昭和の日」は、すっかりゴールデンウィークの始まりの日として、メディアは交通渋滞の予想を立てたりして囃し立てます。昭和は遠くになりましたが、戦後、子供の目に焼き付いた一面の廃墟とお腹を空かしていた状況から、瞬く間に経済の高度成長果たしてきた時代に身を置いてきた者として、何故日本は高度成長が出来たのか興味深いものがあります。経済合理性で説明する識者は数多いるし、それぞれ納得出来るのですが、それだけでは説明出来ない、日常は意識もしないで来た何かがあったように思えます。それは昭和天皇のご存在に対する我が国が持つ伝統的共同体の求心力があり、無意識のうちに日本人の力のベクトルが、他国には見られない結集を見せたからではないでしょうか。

 大東亜戦争では、軍属・民間で260万人とも310万人とも言われる死亡者を出しました(Wikepedia)。国民の怨嗟誠に大なると思われる中で、昭和天皇は護衛を持たず、ツギの当たった服をめされ、宿舎もままならない中、車中や学校の教室に泊まられながら、昭和21年から9年間、全国を巡幸されました。国民の苦難と共にある陛下の姿が姿がそこにありました。

 大日本帝国が崩壊して初めて、国民は間近に天皇を拝する機会を得ました。そこには驚くべきことに、国民の苦しみを共に苦しみ、悲しみを共に悲しんで涙を流される天皇の姿がありました。陛下は自分たちの苦しみ、悲しみを分かって戴けている、陛下は自分たちと共にある、頑張らなくてはとの共感の気持ちが、戦後のめざましい復興のエネルギーになって行ったのではないでしょうか。

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 西村眞悟先生は5月1日配信のメルマガ「時事通信」で、「天皇さまが泣いてござった」と題して、戦後の昭和天皇の国内巡幸にまつわるエピソードを紹介されていました。思わず涙がこぼれてくるお話です。君民相和す我が国柄の原風景がここにあります。
 時移って平成の今、時代は全く変わり、政府は少子化対策として移民政策を進めようとしています。しかし忘れてはならないのは、このような伝統的共同体を表象するような国柄の原風景です。広く国民が共感し共有していくべきものではないかと紹介させて戴きます。

《紹介始め》
 昨日の時事通信で、「昭和天皇実録」のなかで、天皇が「落涙」されたと記されている箇所は、1天皇の十一歳の頃、崩御された明治天皇の御後を追って大正元年九月十三日に乃木希典大将が割腹して殉死したことを翌日十四日に知らされた時だけであると記した。

 しかし、「昭和天皇実録」ではないが、天皇が落涙された記録がある。それは、調寛雅(しらべかんが)氏著、「天皇さまが泣いてござった」(教育社)である。

 昭和天皇は、昭和二十一年から敗戦で疲弊した各地の国民を励ますために、全国巡幸を開始された。昭和二十二年三月、天皇が九州に巡幸され、佐賀県での第一番の行幸予定地が「因通寺洗心寮」と発表された。「因通寺洗心寮」とは、戦争被災児救護教養所で、その時、満州からの引き上げ孤児四十余名が収容されていた。

 五月二十四日朝八時五十分、天皇の御料車が因通寺のある基山町に入られ予定地に停車した。早朝から待機していた基山町のほとんど全人口と思われる人々から、自然に「天皇陛下万歳」の声が湧き上がった。

 天皇は因通寺の山門から参道の坂を登られ、さらに二十三段の石段を登られて境内に入られた。そして、待機していた県知事の挨拶を受けられ、激戦地から生還してきた若い住職の説明を受けられた。
 
 その時、天皇は、住職に歩み寄られ
「親を失った子ども達は大変可哀想である。人の心の優しさが子ども達を救うことができると思う。預かっている沢山の子ども達が、立派な人になるように心から希望します。」
と申された。
 
 緊張して身動きもせず聞いていた住職が、
  「これら天皇陛下の子供らを・・・」
と申し上げると、天皇は、
  「仏の子ども達」
と申された。住職は、竦むように立ち続けていた。

 それから天皇陛下は、引き上げ孤児のいる洗心第一寮と洗心第二寮に歩を進められた。各寮では、子ども達がそれぞれの部屋で陛下をお迎えすべくお待ち申し上げていた。陛下は、各部屋の前に立たれて子ども達に御会釈をなされ、そして、わが子に対するように、一人一人の子どもにお言葉をかけられた。
 「どこから」
    「満州から帰りました」、
    「北朝鮮から帰りました」
 「あ、そう」
 「おいくつ」
    「七つです」、「五つです」
 「立派にね。元気でね」
 
 陛下が次の部屋にお移りになられるとき、子ども達の口から「さようなら。さようなら」と自然に言葉が出た。すると陛下は、「さようならね。さようならね」と親しみを一杯に湛えたお顔で、挨拶をなさった。

 ところが、このように部屋の前で、陛下の方から子どもに話しかけられていたのに、ある部屋の前で、陛下は、直立不動といってよい姿勢で立ち止まられ、一点を見つめて身動(みじろ)ぎもなさらなかった。
 陛下の後に続いて廊下にいた侍従長、宮内庁長官、県知事そして警察本部長達は、何事があったのかと足を止めて陛下を見つめた。

 その時陛下は、部屋の中の三人の女の子の真ん中の子が、胸に抱きしめていた二つの位牌をじっと見つめられていたのだった。そして、女の子に、静かな声でお尋ねになった。
 「お父さん。お母さん」
    「はい、これは父と母の位牌です」
 「どこで」
    「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。」
    「母は引き上げの途中病のため亡くなりました。」
 「お一人で」
    「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。」
    「船に乗ったら船のおじさん達が親切にしてくださいました。」
 「お淋しい」
    「いいえ、淋しいことはありません。
     「私は仏の子です。仏の子は亡くなったお父さんとも、亡くなったお母さんともお浄土に参ったら、
    きっともういちど会うことができるのです。
     お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私はみ仏さまの前に座ります。
     そして、そっとお父さんの名を呼びます。そっとお母さんの名を呼びます。
     すると、お父さんもお母さんも、私のそばにやってきて私をそっと抱いてくれるのです。
     私は淋しいことはありません。私は仏の子どもです。」

 その時、陛下のお顔が変わったように随行の者は思えた。すると、陛下は、部屋の中に入られた。そして、右手に持たれていた帽子を左の手に持ちかえられ、右手をすっと伸ばされて位牌を抱えている女の子の頭をお撫でになった。何回も、何回も。
 そして、おっしゃった。
 「仏の子どもはお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」

 そのとき、天皇陛下のお目からはハタハタと数滴の涙がお眼鏡を通して畳のうえに落ちていった。

 因通寺の参道から県道までの道には沢山の人々が道の両側に座って陛下をお見送りしていた。陛下は、「戦死者遺族の席」と啓示してある前で足を止められ、遺族に対して、
 「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、そのためにみんな悲しんでいるが、自分も皆さんを  同じように悲しい。」

 そして、一番前に座っている老婆に声をかけられた。
 「どなたが戦死されたのか」
     「息子でございます。たった一人の息子でございます。」
 「うん、うん」
 「どこで戦死をされたのか」
    「ビルマでございます。
     烈しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです。
     でも息子の遺骨はまだ帰って来ません。
     天皇陛下様、息子は今頃どこにおるのでしょうか。
     天皇陛下様、息子の命はあなた様に差し上げております。
     息子の命のためにも、天皇陛下様、長生きしてください。ワーン・・・・」
 
 この老婆の言葉をお聞きになっている天皇陛下の両方の眼鏡から涙が頬につたわっていた。

《紹介終わり》

以上
(うまし太郎)
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未分類 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2016/05/04 23:48
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