韓国の国民的料理 ラーミョン

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最近、山に登ってはヌーハラを決行している私ではありますが、インスタントラーメンは日本にいた台湾人の安藤さん(のちに帰化)だそうです。
そしてインスタントラーメンを一人当たりで一番食べているのは韓国人だそうです。なかなかアジアっぽい食品ですね。
そんなインスタントラーメンを食べる際の音やにおいが気になる人がなんかヌーハラとか言い出しているそうですが、香水やらも同じですね。食事のときに音を立てないというマナーを持っているのはヨーロッパ人だけの少数派であり、そんなことを気にしない人は世界中にいます。そしてラーメンを食べる場でそのようなことを言い出す人は得てして礼儀知らずです。
このことが分かっていない人間が報道界には多いのでしょうね?どちらが差別主義者なのでしょうね(笑)

さて、そのようなインスタントラーメンですが、このような経緯で国民的食事になったことをどれだけの韓国人が覚えているのでしょうか?
韓国初の即席ラーメン、明星食品が無償で技術提供…「残飯がゆ」の飢え解決の熱意からはじまった
1人あたりのインスタントラーメン消費量が世界一の韓国。多種多様な商品が流通しているが、韓国内で最初に登場したのは、元祖である日本のチキンラーメンが登場してから5年後の1963年に発売され、今も根強い人気を保っている三養(サミャン)食品の「三養ラーメン」だ。三養ラーメン誕生の背景には、三養食品と日本の明星食品の創業者2人の運命的な出会いがあった。初対面でありながら、明星食品から三養食品に、無償で製造技術が提供されたばかりでなく、企業秘密ともいえる原料の配合表(レシピ)まで伝えた。そんな常識ではありえない交渉が実現できた背景には何があったのだろうか。(張英壽)

韓国人にも知られていない歴史
 三養食品は自社のホームページ(HP)で、明星食品から技術導入したことを明らかにしているが、韓国の人々はこの事実を知っているのだろうか。韓国語がそこかしこで聞こえる大阪・ミナミの道頓堀(大阪市中央区)で、韓国人に聞いてみた。
 「三養ラーメンはあまり辛くない味が好きだけど、そんなことがあったとは知らなかった」と、釜山市の男性会社員、金●(=日へんに文)奎(キム・ミンギュ)さん(25)。ソウル市の男子大学生、金先真(キム・ソンジン)さん(22)も「そんな歴史は知らない」という。
 ソウル市の男性会社員、金閔謙(キム・ミンギョム)さん(28)は「今はさまざまなインスタントラーメンがあり、三養ラーメンも食べますが、日本から技術が伝わったとは知らなかった」と話した。
 三養ラーメンは、激辛麺が席巻している韓国の即席麺市場にあって、あまり辛くない味が特徴。激辛が好きな人には物足りないかもしれないが、定番の即席麺としてファンは多い。だが、韓国の若者の多くは、この三養ラーメン誕生の背景に、日韓協力があったことを知らないようだった。
 一方、年配層では、知っている人もいた。
 「日本からの技術導入は知っていた」と話した釜山市のスーパー経営の60代男性は「日韓の間には、政治的にはいろいろなことがあるが、人と人との関係にはいいこともある」と感想を語った。ただ、男性は無償で技術提供されたことは「知らない」と話した。

当時は世界最貧国、食糧問題解決策として
 日本の明星食品から無償で技術提供を受け、三養ラーメンを開発したのは三養食品創業者の故全仲潤(チョン・ジュンユン)名誉会長(1919~2014年)だ。
 三養食品のHPでは、インスタントラーメン開発を思い立った経緯をこう記している。
 「今でこそ軽い食事としてインスタントラーメンは食べられているが、1963年に三養ラーメンが初めて登場したとき、国内はまだ空腹に苦しむ人が多かった。全会長は60年代初め、(ソウルの)南大門市場を通りがかった際、人々が、一杯5ウォンの残飯がゆを食べるために長い列をつくっていたのを目にし、庶民の空腹を解決しなければならないと決心した」
 60年代初めの韓国の1人あたりの国内総生産(GDP)は100ドル台前半。2015年(2万7222ドル)の200分の1以下で、当時は世界最貧国の一つだった。三養食品によると、かゆは米軍部隊の残飯を使ったものだったという。現在の韓国からは想像もできない光景だ。
 さらにHPは次のように続く。
 「全会長はかつて日本を訪れたときにインスタントラーメンを食べたことを記憶しており、苦悩の末、食糧問題を解決できる唯一の道と考えた。政府を説得し、なんとか5万ドルを借り、日本の明星食品から機械と技術を導入し、ついに1963年9月15日、国内で初めてインスタントラーメンが発売された」
 明星食品の技術提供は無償。そのうえ三養食品に重要な原料の配合表(レシピ)さえ教えた。
 日清食品ホールディングスなど世界の即席麺メーカーが会員になっている「世界ラーメン協会」(本部・大阪府池田市)の櫻井功男(のりお)事務局長は「原料の配合表はスープなどをつくるのになくてはならないもので、企業のトップシークレット。同じ会社内でも、おいそれとは教えない。それを他企業に教えるということは今の常識では考えられない」と驚く。

羽田空港で伝えられた企業秘密「原料配合表」
 なぜそんなことが可能だったのか。全氏と明星食品の当時の社長、故奥井清澄氏との運命的な出会いが大きな原動力となった。
 その当時のことについては、昭和61(1986)年に刊行された明星食品の社史「めんづくり味づくり 明星食品30年の歩み」(引用は平成15年ゆまに書房発行の復刻版から)に、全氏の回想として詳しく記されている。
 この回想や、三養食品への取材を合わせると、韓国の食糧不足に危機感を抱いていた全氏は、昭和34(1959)年ごろ、日本でインスタントラーメンを試食し、「いつかこれを手がけてみたい」と考えた。そして三養食品前身の三養工業社長だった同38(63)年春、インスタントラーメンの機械の輸入や技術提携のために、日本を訪れる。しかし、日本で接触した即席麺の会社は、難しい条件や多くの金額を要求した。
 そんな中、全氏は、知人の紹介で、明星食品社長の奥井氏と会い、韓国の食糧事情を詳しく説明した。回想によると、面会の翌日、奥井氏からはこんな回答があったという。
 「全さん、全面的に協力しましょう。技術料はいっさい不要です。6・25戦争(朝鮮戦争)でお国はたいへんな災禍を受け、傷つかれました。日本は特需景気でもうけ、明星食品は直接その恩恵を受けたわけではありませんが、無関係ではありません。民間外交のつもりでやりましょう。技術料はもちろん、ロイヤルティも不要です。設備いっさいの引き渡し価格1千万円で結構です」
 全氏の資金は5万ドルだったが、設備などの価格は、1千万円をわずかに下回る額で、ドル換算で2万6800ドルで決定したとしている。
 三養食品によると、2人は初対面でありながら、古い友人のように意気投合したという。
 回想では、全氏は工場で10日間の実習も受けたうえ、帰国の際、羽田空港で、インスタントラーメン製造に重要な原料の配合表(レシピ)までもらったと記されている。
 一方、三養食品によると、羽田空港で全氏に、奥井氏の秘書を通じて渡された親書には、「数日間一緒にいて、全氏の清廉潔白で、良心的な経営人の姿を目にし、私たちの出会いに感謝する意味から原料配合表を伝える」と書かれていたという。
 全氏は明星食品社史で「ここまでやって来られたのも、明星食品のおかげ」と感謝の言葉をつづっている。

日韓協力の先駆け、広がる「ラミョン」
 この劇的ともいえる2人の出会いのおかげで、韓国初のインスタントラーメン「三養ラーメン」が出会いの年の63年に誕生した。初代パッケージには「明星食品株式会社と技術提携」と記された。韓国語のラーメンの発音は「ラミョン」。発売以降、この言葉は韓国に広まっていく。日韓が国交正常化したのは2年後。日韓協力の先駆けともいえるできごとだった。
 ただ、軌道に乗るまで、さまざまな困難もあった。
 三養食品によると、三養ラーメンの発売当時の価格は10ウォン。韓国では、コーヒーが35ウォンだった。一方、日本では、コーヒー60円、インスタントラーメン1袋35円程度の時代で、三養ラーメンの価格がかなり抑えられていることがわかる。奥井氏は「あまりに低い価格ではないか」と問うたが、全氏は「食糧難の韓国の状況では、だれもが腹一杯食べようとすれば、この程度の価格にするのが適切」と答えたという。
 しかし、発売当初は「ラミョン」という言葉が耳慣れず、消費者の反応はよくなかった。このため、街頭で人々に無料で食べてもらうなどし、味を知ってもらった。
 また三養食品は当初、明星食品の製造技術をそのまま導入し、模倣するだけだった。しかし、日本と韓国の味の嗜好(しこう)が大きく異なっていたため、66年に実験室を発足させ、韓国式スープの開発を本格化させた。
 努力のかいもあって、60年代の売り上げは前年比で最低36%、最高254%まで伸びた。それでも設備投資などのために最初の3年は赤字だったが、三養ラーメンの人気は沸騰した。
 世界ラーメン協会によると、2015年の韓国の1人あたりのインスタントラーメン消費量は世界一の約70食。激辛味などさまざまな商品が発売され、いずれも50食あまりの2位のインドネシア、3位のベトナム、40食あまりの日本などを大きく引き離している。まさにインスタントラーメンが「国民食」になっている。
 三養ラーメンを主力商品にした三養食品(前身の三養工業時代などを含む)は、60年代から80年代中盤まで韓国の即席麺業界でシェアトップを維持していたが、86年に発売された農心(ノンシム)の「辛ラーメン」に押されるようなる。それでも三養ラーメンは定番として韓国人に愛されており、三養食品は現在でも業界3位に位置している。
 全氏は名誉会長だった2年前、亡くなった。94歳だった。

「何とかしたい」全氏の熱意に「男惚れ」
 戦前の韓国で生まれ、全氏と3回にわたって面談した元同志社大大学院教授の林廣茂氏(76)=マーケティング=は全氏について「人間的な魅力にあふれた人だった。国に対する思いが強く、韓国民の飢えを救いたいという思いにかられていた」と話す。さらに「当時の韓国の食糧難を何とかしたいという全氏の熱意に、明星食品の奥井氏も感動、いわば『男惚れ』し、原料、つまり最大の企業秘密であるスープの配合表まで教えたのだろう。全氏はインスタントラーメンという韓国の『国民食』をつくった偉大な人物だった」と評した。

国民に腹いっぱいのご飯を食べてもらいたいという熱意に日本人が答えたという事です。
現在でも軍隊食は残っていますね。
ブデチゲ、この料理はソーセージやチーズなどを入れ、トウガラシで味付けした鍋にラーメンを入れたものです。
韓国では定番の料理ですね安くて腹いっぱいになります。
このような形で食文化が受け継がれていくのでしょう。これも一つの歴史であり日本と韓国が非常に近い存在であると言えることでもあります。

現在でも日本は韓国の食文化に多種多様な影響を及ぼしていますし、韓国もまた日本に影響を及ぼそうとしています。
「インスタントラーメンは韓国の国民食」 韓国人を支える意外な日本企業
韓国に投資申告をしている日本企業は、韓国産業通信資源部の資料によると2016年12月1日時点で3045社。韓国企業への出資も含まれ、実際に韓国で事業を行っている企業のデータはないが、1000社以上の日本企業が韓国に進出し、事業を行っていると想定されている。

■韓国の経済を支える日本企業
日本電気硝子 <5214> は2013年、韓国・京畿道坡州市に14億ドル余り(1350億円)を投資して製造工場を設立することを決めた。日本企業の韓国進出では過去最大の投資額である。それまでの最高額は2004年にソニー <6758> がサムスン電子との合弁企業に投資した10億ドルだった。ソニーとサムスンの合弁は2011年に解消し、合弁会社はサムスン電子の完全子会社になっている。
日本電気硝子の韓国進出は2005年に遡る。LGフィリップスLCD(後にLGディスプレイに社名変更、以下、LGディスプレイと記載)と合弁で坡州電気硝子を設立。日本で製造した板ガラスを坡州電気硝子で加工し、LGディスプレイに供給していた。LGディスプレイは2009年以降、大型パネルの出荷量で世界1位を維持しているが、日本電気硝子が重要な役割を担っている。
韓国に進出している日本企業の多くが、サムスン、LG、現代をはじめとする韓国企業に部品などを供給している。液晶の原材料や半導体基板、自動車エンジン部品、鋼板、自動車用ガラス、製造機器など日本企業が供給する主要部品は多い
韓国第5位の財閥企業ロッテも日本からの進出企業だ。1988年のソウルオリンピックを前に、韓国政府は世界各国から訪れる外国人に、ホテルや百貨店などグローバルスタンダードのサービスを提供するために招聘した企業のひとつだが、日本では製菓製造がメインでホテルや百貨店の経験はない。
韓国ロッテホテル常務・百貨店事業本部長に小倉玉屋常務営業本部長(当時)だった秋山英一氏を招いた。秋山氏は断るつもりだったが、ロッテ創業者、重光武雄氏の熱意に打たれて引き受けたという。秋山氏が持ち込んだ日本式の接客や販売方法は、韓国流通業界の手本となっている。

■衣食住を支える日本企業
衣食住でも韓国に根付いた日本企業は多い。
リンナイ <5947> を韓国企業と思っている韓国人は多い。韓国の首都ソウルの1月の平均気温は氷点下で、オンドルと呼ばれる床暖房が使われてきたが、ガスや電気、灯油などを使用した温水床暖房が主流となっている。1974年に韓国に進出したリンナイは床暖房のシェアが韓国第3位、家庭用ガスコンロは韓国内50%でトップシェアを独走している。
韓国の伝統食品には、キムチやマッコリなど発酵食品が多い。乳酸菌発酵食品は1969年に進出したヤクルト <2267> が70%のシェアを占めている。ヤクルトレディを見かけない日はなく、韓国人にとって欠かせない食品になっている。韓国ヤクルトの子会社である八道は即席麺を製造し、国内はもとより国外にも輸出している。
インスタントラ―メンは韓国の国民食。1人あたり消費量が世界で最も多い。日韓国交回復前の1963年、朝鮮戦争後の食糧難が続くなか、明星食品が韓国・三養食品創業者の全仲潤氏に製法を無償で供与し、製造機械は韓国政府の支援を受けた。三養食品はホームページ(韓国語)に明星食品から技術と機械の提供を受けて、即席麺の製造を開始したと記載している。
2010年頃から韓国の中高生の間で、アメリカブランドのノースフェイスが流行り出した。ノースフェイスを着ていない生徒はいじめに合う。盗んで捕まる中高生まで現れたが、この悪習にピリオドを打ったのはファーストリテイリング <9983> だ。
寒さ対策の主役が高価なノースフェイスからユニクロのヒートテックにとってかわり、いじめはなくなった。ユニクロは2015年、韓国ファッション市場で初の年間売上1兆ウォン(約1064億円)ブランドになった。サムスン系のBEANPOLEでも年7000億ウォン台と、韓国内外の大手ブランドを大きく引き離している。

■日本の技術を韓国の伝統文化に応用
ここ数年、注目が集まる韓国の伝統家屋にも日本の技術が活かされている。2010年、忠清南道公州市と扶余郡は百済遺跡の世界文化遺産登録を目指して世界大百済展を開催、公州市はその目玉のひとつとして韓国の伝統住居を体験する公州韓屋村を造成した。
当初は韓国産のマツや米マツを使用し建設していたが、途中から宮崎県産のスギ集成材とプレカット処理された部材を導入した。プレカットは現場での作業が省力化でき、施工期間を大幅に短縮できる。韓屋完成後3年経った時点で、韓国産のマツ材にはかなりのひび割れが発生していたが、宮崎のスギ集成材はほとんど割れがなかったという。
2013年の韓国の住宅着工数約18万7000戸のうち木造住宅は1万300戸。2005年までは2000戸以下で、伝統的な韓屋スタイルのニーズが高まった2006年から年々増加している。韓国の木造住宅はアメリカから導入した2×4が主流だが、専門家は床暖房など韓国の生活スタイルに向かないと指摘する。伝統的な韓屋を建てる技術者が少なくなった現在、日本の木材とプレカット技術を活用した「日本製」韓屋が注目されている。(韓国在住CFP®佐々木和義)

もちずもたれずってことかもしれませんね。
これだけ近いのに一方的に日本を嫌う韓国というのがよくわかりません。
もしかすれば自力で独立できなかった卑屈さが出てきているのかもしれません。

韓国は自分たちで自分の国を良くしていき、他の国を敬えるようになれば日本と良い関係になるのかもしれません。
それは韓国次第ってことです。

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私たち日本は韓国を見捨てようとしています。見捨てられるか否かは韓国の行動次第です。
どうするのか見ていきましょう。
(ブラッキー)
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歴史 | コメント:(2) | トラックバック:(0) | 2017/01/06 06:00
コメント:
No title
>見捨てられるか否かは韓国の行動次第です。
どうするのか見ていきましょう。<

行動次第とは言っても、嘘をつく・裏切る・手のひら返しをする民族性は李氏朝鮮末期でもそうだったと聞く。
現在の朝鮮人は過酷な時代を生きぬいてきたご先祖たちの末裔なのだからどうにもこうにもやってらんないという以外ない。10把ひとからげにする気はないが、中華思想が(事大思想)が全てではないだろうか。
柵封国になったことでもわかる通り、戦って負けるという歴史がないために何とか見返そうという気概も持てなかったことが大きい。
我が国における「万機公論に決すべし」という教えや気風が存在しないこと。文字の問題(ハングル:表音文字と言われる)が思考を停滞させているのかもしれない。
通州虐殺前(昭和37年7月27日以前)でも通州あたりに来ていた朝鮮人(当時は日本人なのだが)が「日本人(通州在留日本人)を殺せ!」とあちこちでアジをしていたのだそうだ。結局、虐殺された200数十名のうち朝鮮人が約半数だった(藤岡信勝先生)。
国家という基盤が1500年ほど消えてしまっている歴史が全てではないだろうか(呉善花氏)。原始人とか未開民族と言われるのもむべなるかなである。
日本の併合後、全国高校野球大会(鳴尾球場時代)に朝鮮人だけのチームで代表として出場し活躍して新聞紙面を飾っているのである。
ランナーで出れば、即行で盗塁をするチームだった。
(盗むのが身に染みついている?)そういう意味は置いといてとにかく注目を浴びたとか(村田春樹氏の講演より)。
日本人の精神性の弱点はその国の言葉が話せるというだけで“親日”と思い込む国民性に問題がある(藤岡信勝先生)。
中韓とはビジネスライクに接するのがベストでしょう。

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 沈黙は金、謙譲の美徳、至誠天に通ず、出しゃばり、・・・日本国内でのみ通じる言葉です。
 戦前から日本は強欲で悪徳の権化ばかりの国際社会で善意とで対応してきた結果、一方的な悪宣伝で悪逆な国とレッテル張りをされ、遂に戦争に追い込まれたのでした。
 自国でのみ通用する良識も国際社会では自国を護れない悪徳に変わります。
 時に、下劣な国家、民族に対抗すると、同じ水準に堕ちてしまう、大人の対応をせよと宣う向きがあります。しかしその結果があの戦争でした。
 優しさは下劣な人間には勘違いさせつけあがらせる結果をもたらします。
 鞭以外に教訓を得られない民族もあることを忘れてはなりません。

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