【重要】聖徳太子の功績

聖徳太子を厩戸王に変えないで
聖徳太子が消されそうになっているようです。
元々、諡号として賜った名前である聖徳太子です。生前は厩戸皇子と呼ばれていたそうです。
でも、明治天皇など死後名前を変えることはよくあることであり、歴史に刻まれた名前を変更することは許されません。
何故、聖徳太子だけそのような変なことが行われているのでしょうか?
そもそも聖徳太子は何をした人なのでしょうか?

まず聖徳太子は冠位十二位を作りました。
徳・仁・礼・信・義・智を更に大と小に分けて12の階級を作り、それぞれに・白・の冠を作り、今まで生まれ(姓)だけで決まっていた身分(仕事)を個人の才能や功績を元にして授けれる冠を作り身分の低い者にも出世できるような制度を作りました。
誰でも努力すれば位が上がるという頑張るものが報われる制度ですね。
これにより冠位十二階の制定により朝廷は、世襲制から能力主義の官僚制へと移行し、律令国家へと進みだしたといえるのでしょうね。

次に十七条の憲法です。
第一条:人と争わずに和を大切にしなさい
第二条:三宝を深く尊敬し、尊び、礼をつくしなさい(三宝:釈迦、その教え、僧)
第三条:天皇の命令は反発せずにかしこまって聞きなさい
第四条:役人達はつねに礼儀ただしくありなさい
第五条:道にはずれた心を捨てて、公平な態度で裁きを行いなさい
第六条:悪い事はこらしめ、良いことはどんどんしなさい
第七条:仕事はその役目に合った人にさせなさい
第八条:役人はサボることなく早朝から夜遅くまで一生懸命働きなさい
第九条:お互いを疑うことなく信じ合いなさい
第十条:他人と意見が異なっても:を立てないようにしなさい
第十一条:優れた働きや成果、または過ちを明確にして、必ず賞罰を与えなさい
第十二条:役人は勝手に民衆から税をとってはいけない
第十三条:役人は自分だけではなく、他の役人の仕事も知っておきなさい
第十四条:役人は嫉妬の心をお互いにもってはいけない
第十五条:国のことを大事に思い、私利私欲に走ってはいけない
第十六条:民衆を使うときは、その時期を見計らって使いなさい
第十七条:大事なことは一人で決めずに、必ず皆と相談しなさい

日本史上初の憲法です。といっても役人の心得ってな感じです。
しかし、これが明文化され日本として相手にどのように統治しているかを見せつけるものになったともいえます。

そして遣隋使ですね。
小野妹子が有名ですが、多数の遣隋使が隋に渡ったと聞きます。
「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す」
この文はあまりにも有名ですね。
隋の皇帝に対して日本の天皇からの親書を手渡す際に使われた文章であり、隋と日本が対等な独立国家である事を宣言した文章ともなっております。
遣隋使で隋の文明や物資を輸入しつつ独立国家として世界中に知らしめることに成功した事例です。
そのような紀元1260年代の稀代の英雄の名前を消さなければならないのでしょうか?
日教組という反日団体の影が見え隠れしています。

拓殖大学客員教授・藤岡信勝氏はこのように語っています。
周到な「聖徳太子抹殺計画」 次期指導要領案は看過できない 拓殖大学客員教授・藤岡信勝
≪国民に「厩戸王」の定着を狙う≫
 文部科学省は2月14日、次期学習指導要領の改訂案を公表した。その中に、国民として決して看過できない問題がある。日本史上重要な人物で、日本国家自立の精神的よりどころとなった聖徳太子の名を歴史教育から抹殺し、「厩戸王(うまやどのおう)」という呼称に置き換える案が含まれているのである。
 聖徳太子(574~622)は、冠位十二階と十七条憲法によって国家の仕組みを整備し、天皇を中心とする国づくりへ前進させた指導者だった。中国大陸との外交では、「日出づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す」という文言で知られる自立外交を展開し、日本が支那の皇帝に服属する華夷秩序に組み込まれるのではなく、独立した国家として発展する理念を示した。
 こうして聖徳太子はその後1世紀にわたる日本の古代国家建設の大きな方向付けをした。
 そこで当然のことながら、現行の学習指導要領(平成20年)では「聖徳太子の政治」を学習すべき一項目として設け、日本の古代律令国家確立の出発点に位置づける次のような指示が書かれている。
 【「律令国家の確立に至るまでの過程」については、『聖徳太子』の政治、大化の改新から律令国家の確立に至るまでの過程を、小学校での学習内容を活用して大きくとらえさせるようにすること】(中学社会歴史的分野「内容の取扱い」の項。二重カギは引用者)
 この一文は改訂案でもそのまま踏襲されているのだが、ただ1カ所、右の「聖徳太子」が「厩戸王(聖徳太子)」に突如として置き換えられたのである。
 括弧を使ったこの書き方の意味するところは、「厩戸王」が正式な歴史用語であるが、すぐには誰のことかわからない者もいるので、それは一般には聖徳太子と呼ばれてきた人物のことだ、と注記をしたというものである。
 ということは、新学習指導要領とそれに基づく歴史教科書によって「厩戸王」が国民の間に定着すれば、次期改訂ではこの注記は無くしてしまえるということになる。

≪反日左翼に利用される珍説≫
 改訂案は、小学校ではこの表記の前後を入れ替えて「聖徳太子(厩戸王)」と教えることにするという。学校段階に応じて「厩戸王」という呼称に順次慣れさせ、「聖徳太子」の呼称をフェイド・アウトさせる。周到な「聖徳太子抹殺計画」といえるだろう。
 なぜこんなことになったのか。その根拠は、今から20年近く前に、日本史学界の一部で唱えられた「聖徳太子虚構説」と呼ばれる学説だ。その説は「王族の一人として厩戸王という人物が実在したことは確かであるが」「『日本書紀』や法隆寺の史料は、厩戸王(聖徳太子)の死後一世紀ものちの奈良時代に作られたものである。それ故、〈聖徳太子〉は架空の人物である」(大山誠一『〈聖徳太子〉の誕生』平成11年)と主張する。
 しかし、この説には根拠が乏しい。「聖徳太子」は100年以上たってから使われた称号だが、核となる「聖徳」という美称は、『日本書紀』以前に出現しているからだ。この学説が公表されたあとも、「聖徳太子」の名を冠した書物はたくさん出版されている。
 戦後の日本史学界では、さまざまな奇説・珍説が登場した。騎馬民族征服王朝説、大化改新否定論、三王朝交替説などが典型例である。それらはしばらくもてはやされても、やがてうたかたのように消え去った。「聖徳太子虚構説」もそのような一過性の話題として消え去る運命にあった。
 ところが、事情は不明だが文科省は、この珍説が歴史学界の通説であるととらえてしまったようだ。この説は日本国家を否定する反日左翼の運動に利用されているのであり、その触手が中央教育行政にまで及んだ結果である。

≪日本を精神的に解体させるのか≫
 死後付けられたということを理由にその呼称が使えないとすれば、歴代の天皇はすべて諡号(しごう)(没後のおくり名)であるから、いちいち、大和言葉の長い名称を書かなければならず、歴史教育の用語体系は大混乱となる。そもそも歴史教育は歴史学のコピーではない。歴史教育には国民の歴史意識を育てる独自の役目がある。
 聖徳太子抹殺の影響は古代史のみにとどまらない。明治以降発行された紙幣の人物像として最も多く登場したのは聖徳太子である。このことが象徴するように、聖徳太子は日本人の精神の支えとなる人物だったのだ。
 聖徳太子の抹殺は日本国家を精神的に解体させる重大な一歩である。「日本を取り戻す」ことを掲げて誕生した安倍晋三政権のもとで見逃されてよいはずがない。
 だが、まだ間に合う。文科省は学習指導要領の改訂案について、3月15日まで国民の意見をパブリック・コメントとして募集している。「聖徳太子の呼称を厩戸王に変えるな」という明確なメッセージを文科省に届けて、日本の歴史教育を救わねばならない。(拓殖大学客員教授・藤岡信勝 ふじおかのぶかつ)

私と同じようなことを言っておりますが、それだけ有名な人物であり、重要な人物です。
その歴史上の大物を消し去ろうとする教育方針には従えません。

みなさん、是非文部科学省に反対のコメントをお願いします。
学校教育法施行規則の一部を改正する省令案並びに幼稚園教育要領案、小学校学習指導要領案及び中学校学習指導要領案に対する意見公募手続(パブリック・コメント)の実施について
ご自分の言葉で結構、トンデモ説を吹き飛ばそうではありませんか!

聖徳太子がいたのは事実です。様々な施政を行いその後の日本の歴史の転換点になったのは間違いありません。
宜しくお願いします。
(ブラッキー)

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歴史 | コメント:(1) | トラックバック:(0) | 2017/03/13 06:00
コメント:
「鎖国」も教科書からなくしてはいけません
秀吉が当時のイエズス会日本支部の準管区長ガスパール・コエリョ(ポルトガル人)に「商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、(中略)奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。(中略)少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払う」と詰問しています。そしてデウスの教えを非難しています。

キリシタンによる神道・仏教への迫害については、九州において領民を強制的にキリスト教に改宗させたり神社仏閣を破壊するなどといったことが有馬氏や大村氏など大名単位で行われていたこともあり、迫害があったことは事実である。秀吉はコエリョに「なぜ神仏の寺院を破壊し、その像を焼くのか」と詰問して、コエリョは「キリシタンたちは、我らの教えを聞き、真理を知り、新たに信ずるキリシタンの教え以外には救いがないことを悟った。彼らは神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのである。」と答えています。そして秀吉は「汝らは、日本の宗教に悖り、有害にして、諸国を荒らし、天下を破壊する悪魔の悪辣な宗教をいつまで弘(広)めているのか。予は日本のいかなる地にも汝らが留まることを欲しない。ここ20日以内に、日本中に分散している者どもを集合せしめ、日本の全諸国より退去せよ。」と言っており、その後、禁教令(バテレン追放令)を発布します。

ルイス・フロイスの「日本史4」は当時を知るうえで、貴重な資料であり、内容についてはほぼ疑がわしいところはないと考えられます。

(長崎諏訪神社)

上記は、長崎市内にある諏訪神社の参殿前に“長崎の諏訪・住吉・森崎神社がキリスト教徒らによって焼かれ破壊され毀滅され、1625年(寛永2年)諏訪神社初代宮司によって再興(再建)された”歴史について千葉に帰った後、メールで質問し丁寧な答えを戴いたものです。
ブログなどへの掲載については許可を戴いています。

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