韓国の英雄が亡くなられました。

先日、韓国の英雄が亡くなられました。
どこかの退却している部隊に後ろから襲撃して返り討ちになった奴や非暴力地帯で民間人を暗殺した奴や多くの人の前で手りゅう弾を投げた奴などと違い、彼がいなければ北朝鮮に飲み込まれていたとまで言われている朝鮮戦争の第一線の英雄です。
北朝鮮の地で生まれ、満州にて匪賊討伐を行い、戦後には政治家を助けながら韓国に亡命、韓国にて韓国国軍の前身となる南朝鮮国防警備隊に入隊、釜山にて第五連隊を創設し連隊長まで勤め上げ、韓国軍初の軍事裁判を行うなど、韓国軍には欠かせない人物でした。
朝鮮戦争の際に自身はマラリアに侵されながらも、師団長が突撃し、士気を回復させ逆転劇を行ったことはあまりにも有名な事です。
その時の訓示は以下になります。
連日連夜の激闘は誠にご苦労で感謝の言葉もない。よく今まで頑張ってくれた。だがここで我々が負ければ、我々は祖国を失うことになるのだ。我々が多富洞を失えば大邱が持てず、大邱を失えば釜山の失陥は目に見えている。そうなればもう我が民族の行くべき所はない。だから今、祖国の存亡が多富洞の成否に掛かっているのだ。我々にはもう退がる所はないのだ。だから死んでもここを守らなければならないのだ。しかも、はるばる地球の裏側から我々を助けに来てくれた米軍が、我々を信じて谷底で戦っているではないか。信頼してくれている友軍を裏切ることが韓国人にできようか。いまから私が先頭に立って突撃し陣地を奪回する。貴官らは私の後ろに続け。もし私が退がるようなことがあれば、誰でも私を撃て。さあ行こう! 最終弾とともに突入するのだ
白善燁、1950年8月21日
この突撃により、アメリカ軍が韓国軍を見直すことになり、米韓の協力体制が構築された、信用が生まれたと聞きます。
どこかの似非テロリストとは違い本当に救国の英雄であると言えるでしょう。
アメリカはもとより、日本の自衛隊にも彼を尊敬する人は大勢いるとも聞きます。
その英雄を失った韓国、この先どうするのでしょうか?
日本でもトップニュースとなりましたね。
朝鮮戦争で韓国を死守 「白将軍」が死去 平壌一番乗り
【ソウル=名村隆寛】朝鮮戦争(1950~53年)の際、第一線で戦ったことで知られ、韓国で陸軍初の大将となった白善●(=火へんに華)(ペク・ソニョプ)氏が10日深夜、死去した。99歳だった。
白氏は日本統治下の平安南道江西郡(現・北朝鮮)出身。朝鮮半島の日本統治からの解放後、韓国陸軍の創設に参加。陸軍第1師団長だった朝鮮戦争の勃発当初、南侵を続ける北朝鮮を釜山橋頭堡の守備で阻止した。50年9月の仁川上陸作戦による国連軍の反攻開始とともに、北進し、平壌への一番乗りを果たした。
陸軍参謀総長を務め、朝鮮戦争の休戦後は、合同参謀会議議長などを歴任した。軍退役後は、外交官としてフランス、カナダ大使などを歴任。交通相も務めたほか、1970年のよど号ハイジャック事件の解決にも関与した。
韓国では長く「朝鮮戦争の英雄」として称賛された。朝鮮戦争当時の体験を記した著書は日本でも出版されており、「白将軍」の名で知られた。
朝鮮戦争の英雄、その彼を親日派として糾弾しようとしたのが今の大統領が秘書を務めていた廬武鉉です。
一説には北朝鮮のシンパと言われていた廬武鉉は朝鮮戦争の英雄を敵視していたとも言われており、軍との関係も宜しくなかったのは有名な話です。
廬武鉉の批判は置いて於いて韓国ではこの英雄の死を国民全体で悲しんでいるそうです。
「韓米安保同盟のシンボルが消えた」…米軍からも哀悼相次ぐ
今月10日に死去したペク・ソンヨプ元韓国陸軍大将に対する各界からの哀悼が今も続いている。6・25戦争の英雄であり、韓国軍創軍の元老でもあるペク将軍は6・25当時、多富洞戦闘を勝利に導き、米軍から「生きた伝説であり神話」と呼ばれていた。戦後は韓米同盟のシンボル的な役割を果たしてきた。そのペク将軍の死を受け、米国大使や在韓米軍司令官は弔問と追悼の声明を出すなど個人の死を悼んだ。
1950年の北朝鮮軍による8月攻勢を防いだ第1師団の多富洞戦闘は、スパルタの300人の勇士がマケドニアの海岸にあるテルモピュライ峡谷でペルシャの大軍を防ぎ、全員が玉砕した戦史と比較される。もし多富洞が北朝鮮に突破されていれば、臨時の首都だった大邱が敵の砲火の射程距離に入ってしまうからだった。当時30歳の若さで第1師団を率いたペク将軍は、後退しようとする韓国軍兵士たちを立ち止まらせ、このように述べた。「国が滅びる直前だ。あの人たち(米軍)は戦っているのだから、われわれは退却できない。私が先頭に立つので私に従え。私が後退すれば私を撃ち殺してもよい」。ペク将軍がハッパを掛けたことで、将兵たちは最終的に戦闘を勝利に導いた。
ペク将軍の第1師団は仁川上陸作戦後、最初に平壌に入城した部隊となった。米軍の第1騎兵師団、第24歩兵師団などと激しく競争した末の結果だった。戦争中に韓国軍第1師団は米軍の間で「最もよく戦った韓国軍部隊」と評されたという。ペク将軍は6・25戦争中に韓国軍と警察の遺児や親を失った孤児たちのために孤児院を建てた。1951年11月には野戦戦闘司令官に任命され、智異山のパルチザン掃討作戦などでも功績を立てた。
戦時中の1952年7月、ペク将軍は陸軍参謀総長に任命された。最年少だった。翌年1月には満33歳の年齢で韓国軍初の四つ星将軍となった。停戦会談には韓国軍代表として参加した。ペク将軍は1959年に合同参謀議長となり、翌年5月に予備役となった。最高勲章の太極武功勲章を2回も受けた。ペク将軍は生前、本紙とのインタビューで「人生で最も輝いた瞬間」について「将兵たちと共に平壌に最初に入った1950年10月19日」と語った。
ペク将軍は1952年12月に来韓したアイゼンハワー米大統領選当選者の前で、韓国軍の戦力増強の必要性についてブリーフィングを行った。ペク将軍は陸軍参謀総長として在任し、陸軍10個師団を20個師団に拡大する結実を得た。1957年には2回目の陸軍参謀総長(10代)、2年後に合同参謀議長となり、その翌年に退役した。
1920年11月23日に平安南道江西軍徳興里に生まれたペク将軍は、幼い頃を平壌で過ごした。平壌師範学校を経て1941年に満州軍官学校を卒業した。満州国間島特設隊に配属されたペク将軍は、1945年の解放直後に平壌に戻った。独立運動家の故チョ・マンシク先生の秘書だったが、金日成(キム・イルソン)が北朝鮮で権力を握ると、同年12月に越南した。越南直後に軍事英語学校に入ったペク将軍は、1946年に韓国軍の前身となる国防警備隊に入隊し、創軍元年のメンバーとなった。
在韓米軍は2013年、ペク将軍を「名誉米第8軍司令官」に委嘱し、公式行事の際には現役の米第8軍司令官と同じ待遇を行った。在韓米軍将校らはペク将軍をヘリに乗せ、洛東江の激戦地にまで出向き、6・25の戦況を聞く「現場学習」も行った。昨年11月にロバート・エイブラムス在韓米軍司令官は韓国の年齢(数え年)で100歳の誕生日を迎えたペク将軍を訪問し、祝いの言葉を伝えた。米太平洋司令官出身のハリー・ハリス駐韓米国大使も2018年11月、ペク将軍の白寿の祝いの際、車いすにのったペク将軍の前で膝をつき礼儀を尽くした。今月11日にペク将軍を弔問したハリス大使は、当時の様子を撮影した写真を取り出しながら、故人への尊敬の思いを伝えた。
ペク将軍は1948年の大韓民国政府樹立直後、韓国軍内部で南朝鮮労働党粛正の雰囲気が高まる中、死刑宣告を受けた朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の命を救った。ペク将軍の遺族は妻のノ・インスク氏、息子のペク・ナムヒョク氏、ペク・ナムフン氏、娘のペク・ナムヒ氏、ペク・ナムスン氏。葬儀はソウル峨山病院葬儀式場30号室で行われ、出棺は15日午前7時。葬儀は陸軍葬として行われる。葬儀委員会の関係者は「霊きゅう車はペク将軍と共に戦った将兵11万人が眠るソウル銅雀洞の国立墓地の前を通過する」「米第8軍の協力を受け、平沢の米第8軍司令部にもしばし立ち寄る予定だ」と明らかにした。
味方である韓国の政界や財界などからは疎んじられていたそうですが、友軍や敵軍などからは評価されていた英雄
米韓同盟の精神的柱とも言われていたそうです。
その証拠に与党は何の行動も起こさないようですね。
“朝鮮戦争の英雄の死”に最大野党は「哀悼」、与党は「沈黙」…なぜ? =韓国
韓国では、朝鮮戦争の英雄であるペク・ソンヨプ(白善ヨプ)将軍がこの世を去ったことにおいて、与野党の反応は全くの正反対である。
去る10日 享年100歳でこの世を去ったペク将軍は、朝鮮戦争で若くして活躍した韓国屈指の陸戦指揮官で、朝鮮戦争の英雄であった。
保守系の最大野党“未来統合党”は今日(11日)、ペク将軍を追悼する内容の論評を出したが、革新系与党“共に民主党”は論評を出さないことにした。
与党民主党は、ペク将軍が2009年、親日反民族行為真相究明委員会が発表した親日反民族行為の名簿に名前があがるなど、生前 問題となったため、論評を出さないことしたとみられる。
野党統合党のキム・ウネ議員は「ペク将軍の人生は、大韓民国を守ってきた歴史“それ自体”であり、今の大韓民国があるようにした偉大な人生だった」と伝えた。
統合党の他の議員たちも追悼のメッセージを発信している。
一方、与党民主党の関係者は、この日 韓国総合ニュース通信社“ニュース1”とのインタビューで「ペク将軍の逝去についての論評は出さないことにした」とし、“ペク将軍の親日行跡問題のためか”という質問には答えなかった。
革新系野党“正義党”の報道官はこの日の論評で「ペク・ソンヨプ氏は、日本が朝鮮独立軍部隊を討伐するために立てた“間島特設隊”に所属して独立運動家たちを弾圧した張本人だ」とし「ペク・ソンヨプ氏はこれに対して反省はおろか弁明ばかりしていた」と語った。
そもそも匪賊は独立運動家ではなく、共産党主義でも何でもない盗賊です。
独立運動と言いながら住民から略奪していた極悪人と言う理解はないのでしょうか?
朝鮮独立軍部隊なんてものありませんでした。架空の存在です。そんなことも知らないで英雄を誹謗中傷するのが韓国のやり口なのでしょうね。
これでは白将軍が幻滅するのも無理はありません。
英雄がいなくなった韓国、いつまでテロリストを崇拝し続けるのでしょうか?
そんな国にどんな未来が待っているのでしょうね。
(ブラッキー)


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