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お話にならない韓国の歴史

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最近裏目に出てくることが多すぎて可哀想になる韓国の代表
繁華街では閑古鳥がないており、南大門の通りは誰もいないそうです。
飛ぶように売れていた化粧品は余るようになり衣服も売れていない、食堂も閉鎖され、市場が辛うじて営業しているだけらしいです。
新米の季節だというのに食べるお米は小粒なものばかり、大量に生産する為に肥料を使い味は二の次三の次となり、日本のお米が売れているとか何とか、
半導体も支那への出荷が落ち込んでおり、誰にも相手にされていないと言われています。

そんな中、現代の韓国を象徴するような記事がありました。
開場から二日で…釜山海雲台ブルーラインパーク浜辺列車で「脱線」
韓国釜山海雲台(プサン・ヘウンデ)の旧東海(トンヘ)南部線廃線区間を利用して作られた海雲台ブルーラインパーク「浜辺列車」が開通から二日で脱線事故が起き、運営が中断された。
8日、海雲台ブルーラインによると、この日午前10時30分ごろ、海雲台松亭洞(ソンジョンドン)ブルーラインパークの線路を走っていた浜辺列車の一部が脱線した。
ブルーラインのある関係者は「線路転換地点で車輪が若干離脱した」としながら「線路から20~30センチほど離脱した。線路の高さは5センチ程度」と話した。
該当の列車は時速15キロ程度の非常にゆっくりとした速度で運行し、当時15人が乗っていたが人命被害はなかったという。
ブルーライン側は乗客の安全を確保した後、直ちに払戻・帰宅措置を取ったと説明した。
浜辺列車は復旧のために運営を全面的に中断した状態だ。ブルーラインパークは今月7日に開場したばかりだった。

時速15キロで脱線・・・どんな規格で作ったのかよくわからんですね。
まあ、いいでしょう。仕方ないでしょう。
つうかブルーラインという名前が悪かったんじゃないの?

ま、そんなこんなでコロナ禍から日常に少しずつ戻っていくようですね。
日韓が8日から往来再開、ビジネス目的の長短期滞在者
[東京 6日 ロイター] - 日本の外務省は6日、ビジネスを目的とした韓国との往来を8日から再開すると発表した。出張など短期滞在者、駐在など長期滞在者の両方が対象となる。
日本が往来の再開で合意したのはシンガポールやベトナム、台湾など10カ国・地域目となる。新型コロナウイルスの世界的な感染拡大を受け、人の往来を制限している。
茂木敏充外相は6日の定例会見で「まずは経済交流が回復軌道に乗ることが重要」だと発言。その上で、第2次世界大戦中の徴用工問題などで冷え込んだままの日韓関係について、「外相間、外交ルートで意思疎通をしっかり続けていきたい」と語った。

あれ?韓国の名前入っていませんね。
何ででしょうか?やっぱり信用できないからでしょうね。
台湾やシンガポールへ仕事で行くことはありえます。なかなか良いことだと思います。

韓国は中共包囲網に参加出来ないのが非常に悔しいそうです。
1 韓国外相 「クアッド」加盟に否定的=「他国の排除良くない」
【ソウル聯合ニュース】韓国の康京和(カン・ギョンファ)外交部長官は25日、米アジア・ソサエティー主催のテレビ会議で、米国がインド・太平洋地域で中国をけん制するため推進する多国間安保協力体「クアッド」への加盟について「他国の利益を排除することは良いアイデアではない」と述べ、否定的な考えを示した。
 クアッドには米国と日本、インド、オーストラリアが参加している。米当局者らはクアッドに韓国などを加える「クアッド・プラス」の構想を示している。
 ただ、康氏は「われわれはクアッドに招待されていない」として、「特定の懸案を巡る対話に関与する意思があるが、それが構造化された同盟であれば、われわれの安保利益に役立つかを真剣に考える」と述べた。
 米中両国と良好な関係を維持することが現実的かどうかに関しては、「(特定の国を)選択するという考え方は役に立たない」とし、「(安保は)韓米同盟がアンカー(いかり)であることを明白にしており、中国はわれわれの最も大きな貿易・経済パートナーのため、企業人と市民に極めて重要だ」と述べた。

中韓にパクる精神がなかればいいのですけどそうではありませんからね。
第一何を考えているのかよくわからない奴らへどうしろと言うのでしょうね。
馬鹿じゃないのかな?それとも阿呆か?
共産党に飲み込まれそうになっている韓国に慈悲は存在していません。

さて、最近悲しいお知らせが多い韓国ですが、最大の繁華街も日本人が作ったそうです。
大法院と文政権の言い分なら、韓国最大の繁華街の日本返還は必至
「No Japan」で閑古鳥が鳴く「明洞」は、日本が建設した
「江南スタイル」をパロディーした「明洞スタイル」というタイトルの広報動画撮影のために支持者たちと一緒に踊る
 ソウルの繁華街、明洞は新型コロナウイルスの影響で閑古鳥が鳴いている。明洞は韓国を代表する繁華街で、日本の地方都市に銀座の別称を持つ繁華街があるのと同様、韓国も「春川明洞通り」など、地方都市に「明洞」の名を冠した通りがある。その明洞には20世紀はじめ、韓国に居住した日本人の商店街として誕生した歴史がある。
 明洞は、朝鮮時代には明禮坊(ミョンレバン)と呼ばれ、1914年に明治町へと改称された。
 明禮坊の明と明治町の明、また明るく発展する願いを込めて「明」1文字に日本の丁目や字に相当する「洞」をつけ、戦後、明洞と名付けられた。
 統治時代に日本人が商店街を形成した明治町は明洞(ミョンドン)、隣接する本町は忠武路(チュンムロ)、黄金町は乙支路(ウルチロ)となり、明洞地域の繁華街を形成している。
 朝鮮時代の首都・漢城(後の京城、現ソウル)は清渓川を挟んで、北側の北村と南側の南村に分かれていた。
 北村は上位階級の居住地で、南村は武官や下層貴族の居住地だった。朝鮮王朝はいわゆる賎民の首都居住を制限していた。
 1870年代、朝鮮が開国すると外国人の居住が始まり、85年、朝鮮王朝は現在の忠武路にあたる南山の北麓を日本人居留地として指定した。
 朝鮮政府は北村に外国文化が浸透することを好まず、西欧諸国や中国、日本の公館は清渓川以南か以西に配置された。

朝鮮王朝は日本人を蔑んだ
 日本の公使館は、当初、西大門に建てられたが、1884年の甲申事変で焼き払われると、日本人居住地を見渡す南山麓に移転した。
 新たな公使館は1945年まで日本政府が公館として使用し、戦後には連合参謀本部として使われた。
 朝鮮政府は、北村に最も近い清渓川南岸を清国人に割当て、その一方、日本人を蔑んで、清渓川から最も離れた南山北麓を居住地に指定したが、1894年、日本が日清戦争に勝利すると漢城に住む日本人が急増した。
 南村は十分な商業圏が形成されておらず、居住も不便で、日本人商人は北村への進出を求めたが、朝鮮商人の抵抗と清国商人の圧迫を受け、北進できなかった。
 そこで、日本人は日本領事館と日本居留民総代役場、商業会議所などを居住地の端に新築し、居住と商業活動の拠点とした。
 日本が韓国を併合すると南村の日本人はさらに増加して、日韓併合から5年後の1915年、京城府に居住する日本人は6万3千人弱となり、首都人口24万1千人の26%を占めるに至った。
 1925年、統治政府が行なった国勢調査によると、南村に居住する日本人は4万3千人余で、南村居住者全体の52.7%を占めていた。

約束を守った日本人
 現在、在韓日本大使館に在留届を提出している日本人は約3万9千人、届けを出していない人を合わせると、4万人から5万人の日本人が韓国に居住しているとみられるが、1930年には首都・京城だけで、10万5千人余の日本人が居住していた。
 日本人の居住空間は忠武路だけでは不足し、西は現在のソウル駅から東は新羅ホテルの近くまで、南山麓に沿って日本人居住区が広がった。
 日本人は統治時代になっても大韓帝国政府と結んだ居留地の約定をしっかり守り、逸脱することはなかった。
 日本や日本人と接点を持たない朝鮮人は清渓川の北側などに移住したが、宮廷や官公署などが多く、民家を建てられる面積が限られ、家々は日本人居住区と比べてかなり手狭だったという。
 また、朝鮮王朝と大韓帝国政府は、貧民層の首都への流入を制限したが、日本の統治政府は居住地域を制限しなかったため、朝鮮人居住区には地方の農村から職を求めて移住した人などの住む貧民地区が形成された。
 日本人居住区は、計画的な整備が行われ、清掃も行き届いた綺麗な街となった一方で、朝鮮人居住区は雑多で不潔な空間となり、朝鮮王朝の象徴だった普信閣がゴミ溜めになるほどだった。
 京城の日本人は、日本人が暮らしやすい環境を作った。
 南村は前述の通り、北村と比べて開発が遅れており、また、朝鮮人が次々と出て行ったことから、新しい商業地を開発する空間があったと推察できる。
 統治政府は、日本人居住地の北端、つまりは日本人居住地と朝鮮人居住地の境目に京城府庁や多目的ホールの京城府民館を建てたが、民間人は居住地に隣接する明治町と本町に商店街を建設した。
 なお京城府庁舎は、戦後はソウル市庁、いまはソウル市立図書館となっており、京城府民館は国会議事堂として使われた後、現在、ソウル市議会が“日帝残滓の排除”を叫んでいる。

朝鮮ホテル、半島ホテル、三越百貨店…
 1912年、辰野金吾の設計による朝鮮銀行が本町に竣工した。戦後は中央銀行の韓国銀行本店となり、現在は貨幣博物館となっている。
 総督府鉄道が、1914年10月10日、明洞の一角に朝鮮ホテルを開業した。
 日本人が仁川に建てた大仏ホテル(1888)とソウル貞洞のロシア系のソンタクホテル(1902)に続く、半島で3番目の洋風ホテルだった。
 朝鮮ホテルは朝鮮総督府と京城駅の中間に位置し、また京城府庁舎や朝鮮銀行にも近い便利な場所だった。
 日本に住んでいたドイツ人建築家のゲオルク・デ・ラランデが設計し、清水組が建築を請け負った。東京の帝国ホテルが迎賓館の役割を果たしたように、半島の迎賓館の役割を担った。
 1932年には野口遵が朝鮮ホテルの裏に半島ホテルを開業した。
 慶尚南道興南チッソ肥料工場と鴨緑江・水豊ダムを建設、運営した野口は作業服姿で朝鮮ホテルに入ろうとしたが門前払いを受けたため、これみよがしに隣に半島ホテルを建てたという逸話がある。
 三重県津市の洋服店「丁子屋」は1904年、釜山と漢城に洋服店を開業し、1921年、明治町に丁子屋百貨店を開業した。
 1916年に京城出張所を開設した三越百貨店も1930年、本町に延べ7590平方メートルの店舗を構えた。

韓国が接収した資産の請求権も消滅していないことになるが…
 26年には平田百貨店も開業し、29年には三中井呉服店京城本店が大幅な新・増築を行って事実上の百貨店となった。
 1927年には鐘路に和信百貨店が開業したが、統治時代の韓国5大百貨店のうち、和信百貨店のみが韓国資本で、明洞地区の4軒は日本の百貨店だった。
 現在、明洞の中心に建っている明洞芸術劇場は、1936年、明治座として開業、松竹の映画や洋画などを上映したという。
 また浪花館(後の明洞劇場、1974年閉館)や東宝若草劇場(後のスカラ劇場、2005年閉館)など、日本映画を上映する映画館が建てられた。
 当時、現在の明洞を形成する明治町と本町の商店は、およそ90%が日本人の経営で、日本人と上流から中流の韓国人、また京城に暮らす外国人で賑わった。
 当時、女学校に通っていたというある韓国人は、学校で日本語を学び、明洞で買い物をしたのが楽しい思い出と話していた。
 2018年10月、韓国の大法院は、日韓両政府が1965年に締結した日韓請求権協定に反する判決を下し、文在寅政権も個人請求権は消滅していないという。
 しかし、大法院と文政権の言い分に従うと韓国が接収した資産の請求権も消滅していないことになる。
 明洞の土地建物代金を日本人に返還する覚悟はあるのだろうか。

哂うしかない状況ですね。
自分たちで自分たちの文化を捨てるような話をしているのです。もしかして自覚がないって事なのでしょうか?
まあ、そうなのでしょうね。

さて、今後韓国がどこに向かうかは韓国人次第です。
哂って見守りましょう。(笑)
(ブラッキー)
”ブルーリボン拡散運動”

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歴史 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2020/10/16 06:00
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