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様々な差別

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世界中様々な差別が存在しますね。
それでいて差別ではないのに差別と訴える人もたくさんおります。
そんな世の中は嫌ですね。権利権利と言って他人を否定することがどれだけ立派な行為なのでしょうね。
ゲイやホモ、レズなどの行為自体は否定しません。でも私は気持ち悪いと感じます。
その気持ち悪い性癖を前面に出すなんて信じがたいですね。
送れているという名雷雨で結構でもこちらのあんたらの価値観を強制しないでもらいます。
それがお互いに配慮した関係って事ですね。
その事が左翼やパヨクには判っていないのですよ。

さて、宗教と言うのは経典などのよる神の教えに従う事になりますね。
そういう観点からは日本の神道は厳密には宗教とは言えないのかもしれません。自然を大切にってだけの話ですからね。
その世界三大宗教(キリスト教、イスラム教、神道だったっけ?)の一つであるキリスト教は快楽だけ求める政敵異常者を容認しないようです。
ローマ教皇、同性婚を祝福せず 行き詰った寛容さ
(CNN) カトリックの聖職者は病人を祝福する。生徒に教師、刑務所の受刑者も祝福する。新しくできたビルや車、果ては銃器や戦艦さえも祝福する。彼らが祝福できないのが、結婚した同性のカップルだ。ローマ教皇庁(バチカン)の新たな公式見解がそう述べている。
15日朝にバチカンから届いた知らせは、LGBTQ(性的少数者)のカトリック教徒にとって痛ましく、希望を失わせるものだった。彼らの家族や彼らを愛し、支援する人々にとっても同様だ。見解では続けて「罪」や、「客観的に整った」あるいは「無規律な」といった言葉を用い、LGBTQのカトリック教徒に言及したが、そこは特に辛辣(しんらつ)で残酷な箇所だった。
おそらくローマ教会は、世界中の親たちが口にする次のアドバイスを聞くべきだろう。「何もいいことが言えないなら、黙っていた方がまし」。
米世論調査機関のピュー・リサーチ・センターによると、米国のカトリック教徒の約61%は同性婚を認めている。米国内にあるLGBTQのカトリック教徒のコミュニティーは、今回の知らせに落胆と怒りを覚えたが、驚きはなかった。同性愛者のカトリック教徒のグループ「ニュー・ウェイズ・ミニストリー」は、バチカンの決定を「重要なもの」としつつ、「神はすでにそうした結びつきを祝福している」と指摘した。
バチカンの公式見解は、「同性愛の傾向がある」人々も祝福を受けることはできるが、性行為をしないと合意した場合に限るというもので、米国にいる大半のカトリック教徒の期待には沿わない内容だ。
「これは昔から利用されてきた『罪を憎んで人を憎まず』の一つのパターンであり、ローマ・カトリックだけでなく、他のキリスト教の宗派にも登場する考え方だ」。米フォーダム大学で神学を研究するパトリック・ホーンベック教授は、ナショナル・カトリック・リポーター紙の取材にそう答えた。
15日に公表された決定は、専門的にはバチカンの教理省に寄せられた質問への回答で、ローマ教皇フランシスコがこれを承認した。
だが待ってほしい。確か教皇は、同性カップルに法律婚と同様の法的権利を認める「シビルユニオン」について、よいことだとする考えを近く公開されるドキュメンタリーの中で示していたのではなかったか? 有名な話だが、告白に来た同性愛者をどう扱うかと問われた際には「私が裁くことだろうか?」と返したのではなかったか? 性的虐待の被害者、フアン・カルロス・クルスさんに対し、「あなたが同性愛者なのは問題ではない。神はあなたをそのように作り、そのままのあなたを愛している。私には問題ではない」と語りかけたのではなかったか?
答えはすべてイエスだ。どのやり取りにも、信者に一段と寄り添うフランシスコの流儀が表れている。教皇の座に就いてから8年間、フランシスコはLGBTQの人々について言及し、前任者を上回る寛容さを体現してきた。
しかし、いざ実際に教会の教えを変えようという段になると、そうした姿勢は鳴りをひそめてしまった。
これでは人々は混乱しかねず、打ちのめされたとの感情がわいてきてもおかしくない。カトリック教徒として、毎日シビルユニオンに対する前向きな言葉を聞いて喜んでいたと思ったら、別の日には祝福にまつわる弾圧を嘆かなくてはならないのだから。
教理省の公式見解について考え得る一つの説明は、これが一部のより保守的な教会指導者によって出された質問である公算が大きいというものだ。彼らはドイツの教会で起きている動きに懸念を示していた。そこでは複数の司教が「そのような祝福に対し寛容な見方を示唆していた。ドイツでは近く宗教会議が開かれることになっており、それに備える動きだ」と、イエズス会の聖職者、ジェームズ・マーティン氏はツイートした。同氏は執筆などを通じ、カトリック教会におけるLGBTQの人々に対する寛容性を高める活動に取り組んでいる。
すでにドイツからは、教理省の公式見解に対する反応が示された。同国の司教の会議を統括するゲオルク・ベーツィング司教によれば、彼らはその内容に「納得していない」という。
米国にいるほとんどのカトリック教徒もそうだ。教皇フランシスコの小さな歩みは評価するが、今こそとてつもなく大きな歩みを踏み出さなくてはならない。筆者が熱烈に望むのは、教会がいつの日か、同性のカップルを祝福するだけでなく、2人に対して婚姻の秘跡を承認することだ。教皇にはそれを行う権力があり、結局のところ、現在はフランシスコこそがその教皇なのである。

そもそも性的快楽だけを求めて同性愛になっているのか、異性が怖くて同性愛に走ったのか判りませんけど、動物として、生命としておかしいとは思わないのでしょうか?
日本の結婚感の違いなのかもしれませんが、快楽だけで結婚するわけではありません。未来に子孫を残すために結婚するのです。

さて、商業主義に走っている五輪ピック、じゃなかったオリンピック
なんでも日本で開催される際には政治的な主張をしても良い事になったそうです。
米五輪委、東京五輪選考会での抗議を許可 従来の姿勢と決別
【3月31日 AFP】米国オリンピック・パラリンピック委員会(USOPC)は30日、東京五輪の出場選手を決める選考会で、選手が拳を突き上げたり、国歌演奏の最中に膝をついたりすることを認めると発表した。
 許可される抗議のルールを定めた新たなガイドラインの中で、USOPCは、人種的、社会的な正義を求めるジェスチャーを使ってもよいと述べた。その中には、表彰式や国歌演奏中の膝つき、表彰台やスタートラインでの拳の突き上げ、あるいは「Black Lives Matter(黒人の命は大切)」や「Trans Lives Matter(トランスジェンダーの命は大切)」、「平等」や「正義」という言葉が書かれた帽子やマスクの着用も含まれる。
 今回の新方針は、選手の抗議を厳しく禁じていた以前の規則から完全に決別するものになっているが、USOPCは、適用されるのは選考会のみだと強調している。東京五輪の本大会については、国際オリンピック委員会(IOC)とパラリンピック委員会(IPC)が方針を定めた後で、別のルールを改めて発表するという。
 USOPCは、武器を持たないアフリカ系米国人のジョージ・フロイド(George Floyd)さんが、警察による拘束下で死亡した2020年5月のミネソタ州ミネアポリス(Minneapolis)の事件後、全米で抗議デモが起こる中で方針の見直しに取りかかった。
 IOCは五輪憲章の規則50の中で、五輪での選手による抗議全般を固く禁止しているが、米国選手や選手の国際団体は、この決まりに対する異議の声を高めている。
 今回のUSOPCのガイドラインでは、許可されない抗議の細かな基準も示され、「ヘイトスピーチ、人種差別的なプロパガンダや脅迫、暴力的または差別的な言動、人や財産へ危害を加える行為など、人間や人間の品位、権利に反する」ことを支持するジェスチャーは引き続き禁止となる。(c)AFP

選考会だけだそうです。何でしょうね。どうでもいい話ですけどね。
日本では他国と比べて差別が非常に少ないとされています。
誰にでも平等ですけど関与しないと言った方が良いでしょうね。
なんせ有史以来宗教戦争なんか一切発生していませんからね。
比叡山の焼き討ちは僧兵が仏教徒ではなくなっており、比叡山に子供や女性が多数いたそうです。
仏教って女性禁止でしたよね。子供もなんでいたのでしょうね。
その僧兵が日吉大社の神輿を勝手に持ち出したりして怒りを買ったとしか思えません。
島原の乱も宗教戦争と言うよりも海外と通じて奴隷を輸出していたキリシタン大名の反乱と言った方が適切なんですよね。

日本に住んで着る黒人がこのようなコメントを出しています。
日本に住む黒人作家「アジア系差別」に思うこと
この1年、アジア系の人々はアメリカ中でヘイトクライム(憎悪犯罪)の標的にされ、怯えながら暮らしてきた。こうした攻撃の増加は、トランプ前大統領が撒き散らした人種差別的で排他主義的な発言に起因し、数十万人のアメリカ人の命を奪った新型コロナウイルスを、前大統領が「中国ウイルス」や「カンフルー(インフルエンザを意味する『フルー』とカンフーを掛け合わせた造語)」と呼んで執拗に人種と関連付けたことによって悪化した。
このウイルスを発生させて広めたと中国を責めることで、トランプ前大統領は事実上、中国をわずかでも想起させる人、すなわちアジア系に見える人なら誰でも、連座制によって有罪だと糾弾したも同然だった。
韓国、フィリピン、ベトナム、台湾、そして日本を含むさまざまな国に起源を持つ、トランプが仄(ほの)めかしたようにアメリカ人が死んでいくことの罪を同じようになすりつけられ、その結果、アジア系の人々は、唾を吐きかけられたり、ひどい言葉を浴びせられたり、虐めの標的にされたり、路上で暴行されたりしてきた。

アジア系女性を殴って立ち去った男性
つい先日もアジア系に対する暴力動画が公開された。その動画には、アジア系の女性が真っ昼間に、一見したところ何の理由もなく男性から暴行される様子が映っている。男は彼女に歩み寄り、いきなり殴りかかると、地面に蹴り倒して、無抵抗な女性を踏みつけた。そして何事もなかったかのように立ち去った。
その後警察は38歳の加害者、ブランドン・エリオットを逮捕した。20年前に実の母親を殺害して17年間服役していたエリオットは、終身仮釈放で出所していたが、ヘイトクライムとして重暴行罪で訴追された。有罪になれば25年以下の禁錮刑を科されることになる。
この暴行と同じくらい、いや、もしかするとそれ以上にショッキングだったのは、そばにいた人たちが暴行された女性をまるで気遣おうとしなかったことだ。暴行を目撃していたビルの従業員はドアを閉めてしまい、殴られた女性をまったく助けようとしなかったとされる。
アメリカ人である私は、特に白人のアメリカ人がヘイトクライムの加害者になるのを見慣れている。被害者はたいていマイノリティやLBGTQIA、そして女性であり、加害者は通常、白人男性だ。だがブランドン・エリオットは断じて白人ではない。彼は黒人であり、そのことに私はとてつもなく驚かされた。
それでも、私はここアジアにおける「Blackness」すなわち、「黒人という存在」の非公式な代弁者と見なされることが多いため、アメリカで起きたこととはいえ、「黒人」男性によるアジア系に対するこの暴行について発言する義務があると感じる。いまやメディアはグローバルであり、アメリカで起きることはこちらにもたやすく影響が及ぶことがあるし、その逆もまたしかりだからだ。

日本人が犯罪の対象になることもありうる
いまのところ、アジア系アメリカ人に対する人種差別的暴力の犠牲になってきたのは、ほとんど韓国系と中国系だ。だが、残念ながら、それはいずれ変わるかもしれない。
いつの日か、日本人観光客か、アメリカにいる家族を訪問した日本人女性か、あるいは日本人サラリーマンが、アジア人である(アメリカ人の病んだ人種差別的ロジックによれば、アジア人であるがために新型コロナの責任を負っている)という理由で暴行を受けたり、殺されたりするかもしれない。
そうなれば、日本にいる日本人は、こうした事件により注目するようになるだろう。そして、無力なアジア系女性に憎しみをぶつける黒人男性の姿が録画されたことは、日本で暮らす黒人に向けられる視線に悪影響を及ぼすかもしれないのだ。
もちろんこれは非常に不公平なことだが、世界中のマイノリティが始終このようなことを経験している。あなたのような外見の人々に関するステレオタイプが、自分自身の声よりもはっきりと聞こえてくる――これが、あなたがマイノリティであると確信する瞬間だ。
あなたの行い、特に悪い行いが、あなたと肌の色や出自を一にする人々を代表するものとして受け止められてしまうと、早かれ遅かれマジョリティの言動(悪いものも含め)を学ぶ必要性に気づく。大げさを言っているのではない。マジョリティの雰囲気や傾向を認識することが生死を分けることさえあるのだ。多くのアジア系アメリカ人がいま、このことを学んでいる。
ただし、1つ重要なことを知ってほしい。アジア系女性を暴行したエリオットは、明らかに精神疾患に苦しんでいる人だということを考慮する必要がある。彼はあろうことか、実の母親を殺して刑務所で17年間過ごしたのだ。
アメリカの刑務所というところは、入所時の精神状態にかかわらず、出所時に健全な精神状態を保っている人はごくわずか、という場所だ。私には入所経験のある知人がいるが、彼らの精神状態は出所時、はるかに悪化していたので、このことは事実として知っている。

黒人コミュニティが持つアジア系のイメージ
しかし、だからといってコロナ禍の中で、あるいはコロナ禍以前でさえも存在していたアジア系とアフリカ系の人々の間で起きた卑劣な出来事をすべて看過していいわけではない。
これら両方のマイノリティ集団は白人至上主義において不可欠な役割を担わされ、アメリカの制度的差別による屈辱や、権利剥奪に苦しんできた。時にはその結果、黒人とアジア系の間で強い絆が生まれることもあった。そのような時、私たちは力を合わせ、団結して共通の敵に対して立ち上がった。
しかし、私たちは同じ立場に置かれていることを忘れてしまうことがある。例えば、私が育った場所ではアジア系は黒人コミュニティに住むことはなかったが、コミュニティの中で商売はしていた。これによって、黒人の中にはアジア系はコミュニティの一部ではなく、地域に「寄生する存在」だという感覚を持つ人もいた。
飲食店、酒店、青果店、クリーニング店、ネイルサロン、そしてそう、スパやマッサージ店(3月にアトランタ殺人事件が起きた業種)は、アメリカ全土の黒人コミュニティに不可欠のものだ。こうした店は一般的に「アジア系」(大多数が中国系・韓国系)に分類される人たちが経営している。
そして、こうした人たちは生活を黒人のお金に依存する一方で、黒人客を見下すような態度で、まるで犯罪者のように扱うことで知られている。黒人コミュニティの視点から見れば、彼らは白人のように繁栄したいという固い決意のもと開発途上国からいわば理想郷にやってきたように見えるが、やってきて初めて、白人が繁栄してきたのは奴隷制や搾取により黒人を犠牲にしてきたからだと知るのだ。
それでもアジア系は白人をロールモデルに見立て、白人を見習う。そのロールモデルがいかに黒人を軽んじ、不当に扱うかを見て学び、同じように振る舞うことが非常に多いのだ。
したがって、こうした状況がたびたび再燃し、黒人とアジア系の間の緊張が頂点に達するのは不思議なことではない。過去にはアジア系経営者、黒人客ともに殺害された例もある。こうした緊張はずっと続いている。私が大学生だった1992年のロサンゼルス暴動の際には、韓国系と黒人の間の緊張がひどく高まり、街中での銃撃戦にまで発展した。

マイノリティがマイノリティを差別する代償
こうした状況において皮肉なのは、アメリカでは、黒人のみならずすべての非白人を疎外し、よそ者扱いし、中傷し、犯罪者扱いするのが優位な考え方となってしまいがち、ということだ。  
悪いのは犯罪であり、警察の黒人に対する「過度な攻撃」はしかたのないことで、警察の野蛮な振る舞いと、その結果として起こりうる死は、必要悪にすぎないと考えている非白人がいるのなら、彼らは特定の人種に汚名を着せていると警戒しなければいけない。
これは、結局はトラブルを招くことになる。なぜならマイノリティが、別のマイノリティ集団に向けられた不当な行為を受け入れていると、必ず自分にも跳ね返ってくるからだ。多くのアジア系アメリカ人は今、身の毛もよだつような思いでそのことを学んでいる。
黒人に犯罪者の烙印を押している人たちが、アジア系に新型コロナ発生源・感染源という烙印を押している。コロナの発生は結局のところ黒人コミュニティとアジア系コミュニティ双方にとっての警鐘となったのだ。  
マーティン・ルーサー・キング Jr. はかつてこう言った。「どこにおける不正であっても、それはあらゆるところへの公正への脅威となる……どのようなことであれ、何かに直接影響することはすべてに間接的に影響するのだ」。
今のこの状況こそキング牧師が言っていたことだ。私たちは皆一人残らずこの状況の中にいる、と彼は伝えたかったのだ。そして、この考えを広めようとして彼は殺された。権力の座にいる者たちはこの思想の危険性を知っているが、私自身やほかのアフリカ系の多くの人々が、われわれの兄弟姉妹であるアジア系の人々に対するヘイトクライムの増加に強い嫌悪感を抱いているというのは揺るぎない真実だ。

エリオットがやったことは黒人の総意ではない
私は17年前からアジアで暮らしており、アジア系の家族、友人、仲間、同僚、知人がいる。その私が日本人の妻や、中国人の親友と一緒にアメリカの友人や家族を訪ねたとしよう。
その時に妻や親友がアジア系であるというだけで、新型コロナの責任を不当に被せられ、失礼な言葉を浴びせかけられたり、罵倒されたりするようなことがあったら、私は相手がどんな人種であれ相手を激しくとがめるだろう。  
なぜなら、それは肌の色や「人種」に基づいたある人やグループへの嫌悪であり、いわれなきアジア系嫌悪は私を含む多くの黒人コミュニティのメンバーにとって受け入れがたいものであるからだ。このゲームの本質をすでに見破っているわれわれは、そこに乗っかる事はしないと決めている。
エリオットがやったことは病的で恐ろしい異常行為であり、断じて黒人の総意ではない。彼が信じていることは私、あるいは私の知るほかの黒人の思いとはまったく違う。
私のような考えを持つと思ってもいい黒人を見極めるには、アジア系の友人や家族と共に抗議活動に参加し、「#StopAsianHate (アジア系へのヘイトをやめろ)」「#StopAAPIHate (アジア系・太平洋諸島系住民へのヘイトをやめろ)」と声の限りに叫んでいる人たちを探せばいい。  
彼らこそが私の側にいる人たちだ。
今回、記事のタイトルに「黒人」と使っているが、誰もが人種やその他の属性でラベル付けされない世の中こそ私が目指すところであり、私自身「黒人」とラベル付けされることを望んでいない。あなたが日本人やアジア系である前にあなたであるのと同様、私も黒人である前に私なのだから。

日本では考えられない事ですね。言葉が違うし風習が違うので近づきたくないという考えはありますが、向こうから頭を下げてお願いされれば手伝うのが日本の風習です。考えの違いなのでしょうね。
閥を作るというのは昔からありますし、村社会で助け合って生きているため、外部の人に対しては警戒心がありますが、このご時世、向こうから何かしてこない限り何かするというのは考えられませんね。

他人に対してレッテルを張るだけで差別を行っている人がいる中、事実をもって糾弾する人もいます。
さて、皆さんはどちらになるのでしょうか?考えていきたいものです。
(ブラッキー)
”ブルーリボン拡散運動”

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街宣 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2021/04/20 06:00
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