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自分から動こうとしなかった朝鮮人

高賀山
先日、美濃の国の山である高賀山に行ってきました。
歴史ある山で古くから修験道の山として知られており、麓には大きな鳥居のある高賀神社が鎮座しております。
このような形で日本の歴史は自然とともにあり、はぐくまれてきました。
決して敵対せずにじっと待ち自然と一緒に生きてきたのです。

さて、そんな歴史を持つ日本とそれに対抗ばかりしている朝鮮
その歴史は悲惨なものだといわれています。
500年も続いた李氏朝鮮、実は設立時から中国に服属していた
中国の支配から脱却するために
 14世紀の半ば、モンゴルの元王朝の勢力が衰え、新たに明王朝が台頭しました。朱元璋が1368年に明王朝を建国してから20年間、朝鮮は旧勢力の元王朝に付くべきか、新勢力の明王朝に付くべきか、大いに悩み、揺れました。選択を誤れば死あるのみです。朝鮮としては勢いのあった明に付くのが当然と思われますが、朝鮮の武人たちはあえて元に付くことを主張しました。なぜでしょうか。
 武人たちの狙いは高麗の独立復興でした。元と明の争いの混乱に乗じて、高麗を中国の支配から脱却させようと考えたのです。そのためには、できるだけ長く、そして激しく、元と明が泥試合をしてくれなければなりません。劣勢の元に、朝鮮がテコ入れして、明と戦わせようとしました。これは危険な賭けであり、成功する可能性は低く、一種の強硬策でした。
 武人たちの代表が将軍の崔瑩(チェ・ヨン)でした。崔瑩は倭冦の討伐などで功績があり、清廉な人物で民衆からの支持もありました。高麗がモンゴルの元王朝への従属を強いられてきたことに義憤を感じていた人物で、たとえ国が亡びることになっても従属よりも死を選ぶという武人特有の美学を持っていました。
 崔瑩らの強硬策に反発し、親明政策を取るべきと考えたのが「新進士大夫」と呼ばれる文人官僚たちでした。親明派は、明の勢いを止めることはできない、明に逆らえば皆殺しにされる、そうなる前に明へ服属するべきだと考えました。現実的な路線でしたが、崔瑩からすれば敗北主義者に見えたことでしょう。中国の混乱は自立へのまたとないチャンスであり、この機を逃せば、朝鮮の隷属が続くと憂いたのです。重臣会議では、両派の討論が永々と続けられました。
 高麗時代の末期に、成釣館という研究機関が設置されました。科挙試験に合格した官僚たちがこの機関を運営し、国政に対し大きな影響力を持っていました。成釣館官僚たちの代表が鄭夢周(チョン・モンジュ)でした。鄭夢周らは中国の情勢と実態を掴んでいたため、明に逆らうのがいかに無謀であるかを論じました。

李成桂のクーデター
 親元派と親明派の対立を利用して台頭の機会を窺っていたのが、野心家の李成桂(イ・ソンゲ)でした。李成桂は当初、態度を明確にせず、崔瑩に従っていました。しかし、内心では現実的な親明路線に共感しました。李成桂は親明派の文人官僚や学者を取り込み、他の武人たちよりも優位な立場を得ようとしました。特に鄭夢周は李成桂を高く評価し、親交を深めていました。
 明は1388年、高麗領である鉄嶺(現在の中国遼寧省)以北の割譲を一方的に通告してきました。高麗は元王朝の混乱に乗じて、遼寧の一部を奪っていました。高麗王が明の通告に激怒し、一気に風向きが崔瑩ら親元派優位に傾きました。高麗王は明に対抗するため、直ちに遼東地域に軍を派遣しました。この軍の指揮官に任命されたのが李成桂でした。李成桂は遠征に反対していましたが、彼は戦に強く、崔瑩からの信頼も厚く、指揮官を任されたのです。
 李成桂は1388年5月、約三万八千人の遠征軍を率いて、現在の北朝鮮と中国の国境を流れる鴨緑江河口の威化島(ウィファド)に到達しました。この河を渡れば、明軍と直接対決することになります。李成桂は明軍と戦っても勝ち目のないことはわかっていたので、河を渡り、死地に入ろうとはしませんでした。雨季で河が増水し、渡れなかったこともあり、軍の士気は下がる一方でした。李成桂は国王に宛てて撤退の申し出を何度もしていますが、認められず、進むことも退くこともできない状況に陥ります。
 ここで、李成桂はクーデターを起こすことを決断。軍を引き返し、高麗の都の開京(開城)に攻め上ります。これを「威化島回軍」といいます。開京を占領した李成桂は国王を廃位処刑、崔瑩も処刑しました。李成桂は恩義のある崔瑩を殺したことに良心が痛んだらしく、自らが編纂を命じた『高麗史』の中で、崔瑩を讃えています。
 すでに高麗王朝は民心を失っていました。飢餓が蔓延し、人々は新しい世の中の到来を期待しながら、李成桂たちの「威化島回軍」を歓呼の声で迎えました。

李成桂とは何者なのか?
 1392年から1910年まで500年以上も続く李氏朝鮮を創始した李成桂とはいったい何者でしょうか。彼は高麗の満州人軍閥の頭目であり、その勢力基盤は咸鏡南道(現在の北朝鮮東北部)にありました。李成桂に仕えた李之蘭(イ・ジラン)は満州人女真族の指導者で、満州人を取り込むことに成功しています。
 高麗政権も満州人が中心でしたが、長い年月の中で韓人と混血を繰り返し同化していました。そのような中でも、満州人の血統や、彼らの狩猟・牧畜生活の伝統を強く残す部族を、李成桂は率いていました。
 李成桂の満州人部隊は元々、モンゴル人とも親交が深く、元王朝の支配に長い間、服属していました。モンゴル人と朝鮮を繋ぐ中継交易で収益を得ていました。元末期にモンゴル人の力が衰えると、今度は高麗に服属しました。
 李成桂が韓国南西部全羅道の全州李氏を本貫としているという説がありますが、それは後世の創作であり、李氏朝鮮の創始者の彼を韓人としたい韓国側の都合によるものと見るべきです。李成桂本人の出自について、確たる史料が残っておらず、わからない部分が多いのですが、李成桂の下に集まっていた勢力は李之蘭をはじめとする北方満州人部族の有力者たちであり、李成桂を頂点として、大きな力を持っていたということだけは間違いありません。

中国の操り人形となっていた朝鮮官僚
 親明派の文人官僚たちは儒教の素養を持つ有識者でした。12世紀後半、中国の南宋王朝の時代、朱熹が現れます。朱熹の唱えた儒学理論は朱子学と呼ばれ、中国の知識人層に受け入れられていきます。朱子学が科挙試験の主要科目となり、元王朝時代に一時期、停止されるものの、復活した科挙では、主要な準拠経書(参考書)として朱子学が認定され、国家教学とされます。こうした中国の文化界の流れを朝鮮の高麗王朝も取り入れ、朱子学が最先端の学問として尊重されていました。
 朱子学では、世界の中心たる「中華」に従うことが善であり、君臣父子の名分をわきまえるべきことが説かれます。前述の鄭夢周らをはじめとする成釣館に属する朝鮮の文人官僚たちは朱子学を信奉し、漢民族の明こそが正統な天子であり、明に歯向かうことは「中華」や天子の国、さらには秩序を犯すことになると考えていました。朱子学を重んじていた朝鮮の文人官僚たちは明王朝にとって、実に都合の良い味方であり、中国の操り人形として活躍を期待されたのです。

中華思想はなぜ儒学と一体化したのか?
 朱子学は中国中心主義の中華思想と深く結び付いています。「華」というのは文明のことであり、漢人は文明の「中」にいる民族、即ち中華であり、周辺の他の民族は文明の「外」にいる夷狄(野蛮人)であるとされます。
 中華という言葉は唐の時代に編纂された歴史書『晋書』などにも使われていますが、この言葉を概念として定着させ、一般化させたのは宋王朝の司馬光です。司馬光は歴史家であると同時に、宰相にまで登り詰めた大物政治家でした。司馬光が編纂した『資治通鑑』(1084年完成)は全294巻の大歴史書で、編纂のための史局が設置され、宋王朝の全面的援助を受けて完成しました。時の皇帝神宗が「為政に資する鑑(かがみ)」と賞して、『資治通鑑』というタイトルになったのです。
 司馬光はこの『資治通鑑』の中で、儒学の思想に基づき、君主と臣下のわきまえるべき分を説く「君臣の別」や、漢人(華)の周辺異民族(夷)に対する優位を説く「華夷の別」を主張しています。「華夷の別」とともに、文明の「華」の中にいる漢民族が歴史的に果たす使命というのは何かという中華思想が全面的に展開されます。
 高度な文化を擁する漢人は憐れな周辺蛮族に施しを恵んでやる寛容さも時には必要であるということが記述され、周辺民族をかなり見下した内容となっています。その中で、日本や朝鮮などの東方の国は「東夷」と呼ばれ、周辺の野蛮人の一派に位置付けられています。
 南宋時代、朱熹は司馬光の『資治通鑑』を称賛し、これをもとに『資治通鑑綱目』を著し、大義名分論を展開して、中華思想が儒学の世界観の中に統合され、朱子学という民族主義的な新しい儒学体系が生まれます。

思想だけでなく利権も与えた
 朝鮮の文人官僚たちは朱子学の素養を持つことが文化的洗練の証しであり、野蛮な未開人と訣別する道であると信じ、自らの思想を中国化していきます。彼らの中には中国に留学した者も多くいました。
 成釣館の文人官僚たちの権力の源泉は「中国と繋がっていること」でした。中国の内部事情に精通し、時に要人に頼み事を聞いてもらうこともできる、中国に顔が利くということが最大の武器だったのです。中国にとっては、彼らは使い勝手のよい「リモートコントローラー(遠隔操作要員)」のような存在で、公私にわたり惜しみない援助を与えました。つまり、中国は、朝鮮官僚に思想だけでなく、利権も与えたのです。朝鮮官僚たちにとって、後者の方が一層ありがたいものであったのは言うまでもありません。
 明王朝の建国期において、中国はかつてない程、効果的にこうした要員を動かしました。孫子の兵法の極意は「戦わずして勝つ」ですが、明王朝は朝鮮の文人官僚たちを利用し、朝鮮を抑え込むことに成功したのです。

「小をもって大に事(つか)ふるは保国の道」
 高麗末期の親明派官僚たちは中国に媚びへつらい、自らの利権を肥え太らせていました。この親明派に便乗したのが野心家の李成桂でした。
 李成桂は遼東遠征を命じられた際、「小をもって大に事(つか)ふるは保国の道」と言いました。これは『孟子』の「以小事大」からとったもので、大国の中国に事(つか)えることが肝要とする考え方で、「事大主義」とも呼ばれます。李成桂の発言は親明派の文人官僚たちの意向を汲んだ忖度でした。そして、クーデターによって、実権を握った李成桂は高麗王家一族を都から追放し、1392年に自ら王位に就き、李氏朝鮮を築きます。日本は当時、室町時代の足利義満の治世の末期でした。都は開京(開城)から漢陽(現ソウル)へと遷都されます。1395年に漢陽を漢城と改称しました。
 李氏朝鮮は成立時から明の元号を使用し、明の官服や制度を導入しました。中国の明王朝に服属したのです。

李氏朝鮮は支那の操り人形だったということですね。
だからあのような思考回路になるのでしょう。
まあ、これも歴史ですね。

日本は日本で大切にしてきた歴史が文化があります。
朝鮮を相手に崩してはいけないということでしょうね。
他所は他所、うちは内ってことです。
(ブラッキー)
”ブルーリボン拡散運動”

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歴史 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2022/07/07 06:00
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