知らぜらる地中海の英霊達

知らぜらる地中海の英霊達

先日、兵庫にて平護会の関西支部である日本歴史文化研究会の勉強会がありましたのでその報告です。
大日本帝国の帝国海軍が第一次世界大戦に参加しておりその活躍ぶりがヨーロッパ中から賞賛を浴びたことは皆さん知らなかったことだと思います。
実際、私も今回の勉強会にて初めてお聞きしました。
日本が第一次世界大戦に参戦したことは皆さんご存知でしょうね。
まずはその経緯を時間軸で見てもらいましょうか

拡大化(1914)  サラエボ事件(6月)→墺対セルビア宣戦(7月)→独対露・仏宣戦(8月)→英・日本対独宣戦 欧州・青島・南西アフリカ戦場に→オスマントルコ参戦(10月)ブルガリア参戦(12月)→マルヌ戦
泥沼化(1915)  ガリポリの戦い(4月) 伊、墺に参戦、塹壕戦、毒ガス戦、潜水艦対英封鎖、ルシタニア号(英)事件、ポーランド分割、パリ空襲
総力戦化(1916) ベルダン戦(2月)、ソンム戦(7月)
膠着化(1917) 無制限潜水艦作戦、日本海軍地中海派遣(2月)→米国参戦(7月) 厭戦気分拡大 IRA反乱
ロシア崩壊(1917)   2月革命(ロマノフ朝崩壊) →10月革命(独支援 ボリシェビキ政府)→ロシア内戦(チェコ兵支援の米英仏日シベリア出兵18’.8) 
英軍による北海封鎖に対抗→独・無制限潜水艦作戦
1917年2月 独潜水艦は5708隻を撃沈、10300人が犠牲。欧州に艦隊派遣を要請、日本側は慎重だが国益上派遣決定。(満州、南洋権益)
欧州戦線で血を流さず儲けている批判「血と汗を流せ」
日本はバブル経済→GDPは3倍 米国も世界最大の債権国に 
欧州戦線の英仏軍戦死者は第二次大戦と比較して
     仏は10倍、英は3倍→再三の陸軍派遣要請も
第一特務艦隊はインド洋横断航路の護衛
第二特務艦隊は地中海横断航路の護衛 マルタ母港
第三特務艦隊はオーストラリア、ニュージーランドのシーレーン防衛
日本初のpko

帝政崩壊(1918) ロシア脱落(3月)→春季攻勢作戦失敗→トルコ降伏(18’.10)→独キール軍港反乱→独・墺帝国崩壊、ワイマール共和国・ドイツ休戦(18’.11) →ポーランド第二共和国、パリ講和会議(19’.1)→ベルサイユ条約(19’.6)→(20’)チェコスロバキア、ハンガリー王国成立

事は1917年のドイツによる無制限潜水艦作戦での犠牲を護るために日本海軍は出撃しています。
当時の独・墺軍の48隻のUボートが連合軍の輸送船を多数撃沈。地中海はエジプトやアルジェリア、アジア、中東方面からヨーロッパへ向かう重要な航路。毎日4千トンの商船が餌食、1年で412隻が撃沈されていました。
Uボートに対して有効な対潜兵器、戦法も未確立、日本艦隊にとって爆雷はまだ新兵器、対潜攻撃は未経験、外洋航海も初、ソナー、レーダー、飛行艇なし。
そんな状況での護衛活動でしたが日本海軍はそんな中でも立派に成果を上げつつあります。

地中海の英霊達

日本の特務艦隊の成果
特務艦艇17隻を派遣 輸送護衛と対潜水艦戦1年9ヶ月マルタを基地としてアレキサンドリア-マルセイユ-タラント-サロニカ航路を護衛。
出撃回数384回、護衛船舶788隻、兵員70万輸送、内7075人を救助。交戦は34回、撃沈は13隻
英・仏・伊・ベルギーから勲章を授与され、盛大な歓待を受け、パリ講和会議にも良い影響。
戦闘出動率も連合国トップ 日本(72%)英(60%)仏伊は(45%)
独戦利品潜水艦で日本は潜水艦先進国へ
1917年5月、駆逐艦「松」と「榊」は、沈没する兵員約3千人を乗せた英客船トランシルヴァニアから、約2700人以上を救出。身を挺した奇跡的救助は、英国議会全議員によるバンザイ三唱、ジョージ5世から勲章を授与。
1918年3月、兵員437名を乗せた仏輸送船「ラ・ロアール」が雷撃を受け、護衛の「檜」「柳」は夜陰の中、435名を救出、Uボートの攻撃を顧みず「ラ・ロアール」を曳航して、引き返した。
独春季攻勢に対抗するため連合国20万の兵を北アフリカから欧州に輸送する大船団をピストン護送し、損失は2隻という奇跡的成功で大戦の趨勢を決めた。「地中海の守護神」とまで呼ばれ、日本の護衛でないと出港しない輸送船まで現れた。1918年4月

しかし、日本海軍も無傷ではありませんでした。
73名の日本人がマルタの英国海軍墓地に葬られた「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」の碑。皇太子殿下も欧州御巡幸の際、マルタ島カルカラの地の墓碑にご参拝されている。
(大正十年、1921)
第二次大戦中の爆撃で破損したが、英海軍、マルタ共和国の協力で管理され、戦後我が国予算にて修復され、海上自衛隊による参拝も実現しています。
地中海 慰霊

このような形で日本海軍も第一次世界大戦に参戦をし、きちんと世界に対してアピールを行っていました。
その後、パリ講和会議、ワシントン会議を経て大東亜戦争へと日本は舵を取っていきます。
何故、日本は戦いを大東亜戦争を始めなければならなかったのか、私たちは日本の初めてのPKO活動によって引き出されたパリ講和会議とワシントン会議
この二つから白人の人種差別意識が明確に見て取れることでしょう。
日本が目的としていた国際親善・協調の幻想、まさに幻想でした。
その事については後日書かせていただきたいと思います。
敗戦国の扱い

以上、宜しくお願いします。
ちなみに地中海の英霊のお話はマルタの礎という小説に書かれています。
読まれてみるのもよいでしょうね。
(ブラッキー)

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国防 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2013/10/06 06:00
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