エルドアン・トルコ首相が来日 近い反日国家より遠い親日国家

日本とトルコ

こちら赤池先生のfbコメントです。
 1月7日から9日までエルドアン・トルコ共和国首相が来日しています。国会周辺には、国旗が掲揚されています。日本とトルコ両国の国旗を見ながら、大変対照的で相互的な国旗だと改めて感じました。太陽を象った白地に赤い日の丸の日章旗に対して、トルコ国旗は赤字に白い三日月と星が表現されている月章旗です。

 国旗に象徴される通り、日本とトルコは歴史的に大変友好關係にあります。有名な明治23(1890)年のエルトゥール号事件(トルコ艦隊が和歌山県沖での遭難し、581名が死亡したが、官民上げて69名を救出してトルコへ手厚い支援をして送り届けた)、日露戦争においてロシア黒海艦隊を封鎖し、勝利を我が国のように喜んでくださり、昭和60(1885)年イランイラク戦争においては、テヘランで孤立した邦人のために、トルコ政府が航空機を派遣して救出してくれたこと。東日本大震災では、32名を派遣し、最長の3週間に及ぶ救援活動をしてくださいました。本当に有難いことです。
 昨年、安倍総理が2回トルコを訪問し、日本企業による原発建設が合意され、次回国会で日本トルコ原子力協定が国会で審議されます。大成建設によるボスポラス海峡の海底トンネル(地下鉄)建設、IHIによる世界4位の吊り橋建設、三菱電機による通信衛星事業等が実施され、さらに揚水発電所建設の調査、EPA(経済連携協定)も議論されています。イスタンブールでは、両国による科学技術大学の設立が準備されています。  
 今年は国交樹立90周年であり、トルコで両国関係を展望するシンポジウムが開催される予定であり、来年にはエルトゥールル号事件とテヘラン邦人救出をテーマとする日トルコ合作映画が公開されることにもなっています。
 エルドアン首相は、8日天皇皇后両陛下とお会いになり、トルコへの招待を表明されました。
 近隣の反日国家と無理して付き合うより、遠くの親日国家と付き合うことの方が、どれだけ大切か具体的に証明していると思います。


こちらに記載されています、エルトゥールル号事件の慰霊碑およびトルコ記念館にお正月伺ってきました。
「エルトゥールル号慰霊碑」
事件の概略ですが、
明治天皇から歓待を受けた彼等は責務を果たし、帰路の準備も整った3ヶ月後の9月に、故郷への出航が決まった。
ところがこの時、日本には台風が押し寄せていた。明らかに船出には不向きな天候なうえ、エルトゥールル号は長い旅路で船体もそうだが、物資・人員ともに、とても船旅をするには心許ないくらいに消耗しきっていた。
日本政府は出航の延期を進言したが、責任者はその提案を固辞した。海軍の戦力低下の懸念もあって、1日も早く彼等は故郷へと帰らなくてはいけない思惑があったのである。
日本政府の心配を他所に、エルトゥールル号は出港、しかしその途中で政府の懸念していた通り以上の事故は起きてしまった。
エルトゥールル号は和歌山県の串本近海で台風に進行を阻まれる中、岩礁に衝突して船体が割れてしまう。さらにそこから機関室に海水が侵入、機関部は水蒸気爆発を起こした。こうしてエルトゥールル号は沈没、船員は冷たい海に投げ出されてしまった。
流された船員は灯台を見つけ、灯台守にエルトゥールル号の惨劇を知らせにいった。といってもたかだか3ヶ月しか滞在していない小国の言葉など船員は覚えていないうえに憔悴しきっていた。何を言っても通じない外国人に灯台守は「万国信号書」を見せて、ようやく彼等がトルコ人であることを知った。
灯台守は近くの村の人々に応援を要請、彼等は女子供も問わずに乗員が投げ出されているという大島の沿岸へと向かった。
「エルトゥールル号難破場所」

現場は惨憺たる有様だった。岸に打ち上げられた乗員達はほとんどが虫の息、遺体も投げ出されているし、しかも海岸には息絶えたトルコ人の遺体が何体も浮かんでいた。
村人達はそれを見て酷く心を痛め、異国の地で絶える無念を思って泣いたという。
そして奮起した彼等は、息のある負傷者を自らの体温で温めたり、溺れて助けを待っているかもしれない乗員を救うため嵐の海へ飛び込んだり、四方八方手をつくして救出にあたった。結果乗員587人は死亡・または行方不明となって日本の地でその生涯を終えることとなった。引き上げられた遺体は丁寧に村の人々が葬ったという。
助け出したとはいえ、この村はほとんど施設の整っていない貧しいド田舎の村だった。まともな医療施設などもちろんなく、しかも台風の影響で漁に出られないので食料も底を尽きはじめていた。
それでも彼等は自分達の食い扶持を減らし、最後に残ったニワトリをも彼等のために利用し、献身的に介護した。
結果として、残りの69名の人命は救われた。この報を聞きつけた政府は負傷者達を東京へと移し、施設の整った医療機関で治療を受けさせ、彼等はなんとか快方へと向かった。
さらにこの話を聞きつけた山田寅次郎は、彼等のために義援金まで募っている。
回復した乗員達を母国に返すため、日本政府は比叡、金剛の2隻の軍艦に彼等を乗せて、トルコのイスタンブールへと送った。この時、山田は義援金を託そうとしたが「せっかく募ったのだから君自身が渡すといい」と言われて、一緒に軍艦へと乗り込んでいる。
この事故は明らかな判断ミスによって起きた人災であった。だがオスマンの皇帝はこれを秘匿して天災による悲しい大事故として丸く収めた。この時新聞の報道などで日本の村の人々の救助活動が伝えられ、当時の人々は日本に対する好感を抱いたと言われている。
1891年には事故のあった串本では慰霊碑が県立され、1929年にはさらに拡張された。ちなみに場所は乗員達が命からがらに助けを求めた灯台の近くである。
今でも5年ごとにこのエルトゥールル号の犠牲者を悼む追悼式典が行われており、和歌山県はトルコと特に強い友好関係にある。
義援金を届けた山田は、たかだか民間人ながら厚い歓迎を受け、皇帝からは友好のためトルコにとどまって欲しいと懇願され、それを引き受けることになった。山田はそこで日本語を教えたりなどして友好関係の構築に務めた。その中にトルコ共和国の初代大統領・ムスタファ・ケマル・アタテュルクもいたと言われている。
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日露戦争時には、永らくロシアから圧力をかけられていたこともあって、トルコ人は日本の勝利をまるで自分のことのように喜んでいたと言われている。

そして時は流れ1985年、イラクのサダム・フセインが、「40時間後、イラン上空の航空機を無差別に攻撃する」という布告を行った。これを聞いてイランにいた外国人達は全員イランからの脱出を試みることになり、各国が迎えの航空機をよこす中、日本は憲法9条が仇となり、その原則から救出のため自衛隊を送り込めなかった。
ちなみにこの時、自衛隊派遣に反対したのは当時の最大野党であった社会党、現在の社民党である。
さらに民間の日本航空も、イラン・イラクの情勢が安全とされるまで航空機は出せないとした。
これもまた組合に所属する共産・社会党の面々が社内で猛反対したためである。
かくなるうえはと各国に救援を要請したものの、どこの国も自国民の救助で手一杯となっており、とても外国人を乗せているような余裕はなかった。
こうしてイランに取り残された邦人約250名は、刻一刻と迫る刻限の時を、絶望とともに迎えるしかなくなっていた。
イランの駐日大使は最後まで他国の大使館に要請を送り続け、やがてトルコに辿り着いた。もしかしたら要請をしていた本人はまた断られると思っていたかもしれない。
だが、トルコの大使は、こう答えた。
「わかりました、ただちに本国に救援を求めて救援機を派遣させます。かつてのエルトゥールル号の事故で日本の方々がしてくださった献身的な救助活動を、今も我々は忘れてはいません」
と答えて要請を快諾。実際にトルコ政府は救援機の最終便を2便も増やした。そのうえでトルコは自身の国民も苦難を抱える中で、自国民よりも日本人を優先的に乗せてくれたという。それはタイムリミットまで1時間15分と迫った時のことだった。
当然乗りきれなかったトルコ人が出てくるわけだが、トルコがイランからそれほど遠くなかったことから、彼等は陸路(自動車)でイランから脱出したという。
日本のマスコミは、当然そんなことなど知らないので一様に首を傾げ、トルコに「どうしてですか」と尋ねた。
質問されたトルコの担当者は、一言「エルトゥールル号の恩を返しただけですよ」と答えたという。

エルトゥールル号の恩返し

今後も友好国で在ってほしいです。
隣人は選ぶことが出来ませんが、友人は選ぶことが出来ます。
どのような友人を選ぶかはその人次第です。
頑張りましょう。
(ブラッキー)
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歴史 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2014/01/19 06:00
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